柄谷講義メモ(平成二二年三月)

交換様式Dについて、ざっとまとめておこう。

交換様式Dは、A(互酬性)の回復ではなく、その否定である。Aの贈与/返礼とは、人を支配するだけでなく、神も支配しようとする。つまり、Aにあるのは呪術であり、Dは脱呪術としてあわわれる。さらにDは、BとCに対しても同様に、脱国家武力、脱資本蓄積としてあらわれる。

D象限における「贈与」とは、ABC各象限の核にあるもの、すなわちA象限の「呪術」、B象限の「国家的武力」、C象限の「資本蓄積」、それらすべてを捨て去るということだ。言い換えれば、人が人を支配するものを放棄するということである。つまり、それが無支配=イソノミアである。

無支配=イソノミアとは、自由かつ平等な社会の核になるものであるが、それは人類が定住とともに失ったものである。定住とともにうまれた氏族共同体は、自由を制限して平等性をもたらす。対して、定住前のバンド社会はベースに自由(=遊動性)があり、その自由が平等性をもたらす。

自由(=遊動性)がもたらす平等性とは、共同寄託(pooling)であり、贈与/返礼とは異なる。親子間にある純粋贈与を互酬性としてみる見方(子どもへの贈与によって親は喜びを得ているとするならば、これも互酬性である)もあり、それは共同寄託とは分けて考えておくべき。

普遍宗教の始まりは、無支配=イソノミアの回復にあった。しかし、普遍宗教は、世界=帝国が諸国家の支配のための法として採用することで堕落してしまう。つまり、預言者は司教、祭司に堕落する。それは、ユダヤ、キリスト教だけでなく、仏教や儒教も同様である。

イソノミアとは、ネーションのように想像的に回復させるものではなく、(ABCにおいて)抑圧されているものの回帰として開示される。つまり、おのづからそうなるほかないような、言わば強迫的な力を伴ってやってくる。

1件のコメント

  1. 柄谷さんは交換様式Dとは、Aの高次の回復であると言う。イソノミア(自由=遊動性がもたらす、平等=共同寄託)が高次の回復とすれば、ネーションとは言わば「低次の回復」ということになる。

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