漱石の一句(2)永き日やあくびうつして分れ行く

前回『子規・漱石往復書簡集』から、子規の漱石の句に対する添削例をあげましたが、そこには「陳腐」「捨ツベシ」「言ヒマワシワルシ」「古イ」「平凡」「イヤミ」「非俳句」「巧ナラントシテ拙也」など、きびしい評が見られます。

添削例を少し見てみましょう。

原句 冬籠り今年も無事で罷りある(明治28年)
→ 冬籠り小猫も無事で罷りある

原句は報告で終わっています。子規の添削句は「子猫」に焦点を移すことで、奥行きが生まれています。あえて、自分ごとを奥に引っ込めたことで、距離が生まれたわけです。

原句 作らねど菊咲にけり活にけり(明治29年)
→ 作らねど菊咲にけり折りにけり

原句の「活にけり」ではただ事ですが、「折りにけり」と言ったことで、菊の命のはかなさに気づかされた感じがします。

このように同じ形であっても言葉一つで句の広さや強さが変わるのが俳句です。おそらく漱石も添削を受けるたび、なぜそう直すのかを考えていったはずです。

漱石は熊本の第五高等学校へ赴任してからも、精力的に俳句創作に挑んでいきます。子規の直しも急激に減ります。子規の体調悪化も原因になっているはずですが、明治30年には子規の特選、並選の句がぐっと増えて、明治31年に漱石は熊本の俳句結社紫溟吟社の主宰になります。

この熊本時代の教え子である寺田寅彦によると、漱石は「俳句とはレトリックのエッセンスである」と言ったそうです。その言葉の裏には、こうした子規の添削指導があったはずです。もちろん、文学そのものの形式化を試みた(「文学論」)フォルマリストでもある漱石です。俳句も又少なからず形式主義的なとらえかたをしていたに違いありません。

しかしながら、漱石は俳句のすべてを形式に還元していたわけではありません。後述するように、あくまでも詠むべき時に詠むべき句を詠む、そこが一義的であって、むしろそのために身につけておく技術であったということができます。

漱石の残した句の多くが習作であったと言っても、それは不完全なものということではありません。むしろ「自己完結しない」ということにおいて、漱石の姿勢は一貫していたと言えるのです。

いずれにしてもこの時期、漱石は真剣に俳人の道を進んでいました。漱石の有名句は、この頃の作品が多いです。たとえば、こんな句があります。

永き日やあくびうつして分れ行く

前書きに「松山客中虚子に別れて」とある通り、明治29年に熊本へ行く漱石が虚子と別れたときの作品です。虚子の句「永き日を君あくびでもしてゐるか」を受けています。虚子の永き日の句は、子規の従弟である藤野古白の一周忌に詠まれた句です。ちなみに漱石は「古白とは秋につけたる名なるべし」と詠んでいます。

漱石の「永き日やあくびうつして分れ行く」も、虚子の「永き日を君あくびでもしてゐるか」も、「永き日」と「欠伸」の句であり、どちらも笑いのある句です。漱石の句はどこかさみしげであり、ユーモラスです。ここには、レトリックではない、漱石と虚子の体質の違いがあらわれていると思います。

運命とは残酷で、また面白いものです。明治33年、漱石は文部省から英国ロンドン留学を命ぜられます。漱石の俳人としての運命は一旦ここで断ち切られることになるわけです。もし、このまま漱石が俳人としての道を進んでいたら、いったいどんな句が生まれていたか。ここには今なお新たな可能性が秘められていると思わずにはいられません。

参照:寺田寅彦「夏目先生の俳句と漢詩」(青空文庫)

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