うつつなきつまみごころの胡蝶哉  蕪村

蕪村のこの名句ですが、解釈が難しいとされているそうです。たしかに、詠み手が胡蝶をつかんでいるのか、胡蝶がなにかをつかんでいるのか、判定しがたいものがあります。そこで、英文になっているものがあったので、見てみました。

 Butterfly in my hand -As if it were a sprit Unearthly, insubstantial.

英文では、ほぼこの訳で定まっているようです。基本的には、詠み手がつまむ主体で、胡蝶がつままれている対象だという解釈です。

 うつつなきつまみごころ〈のなかにある〉胡蝶〈であることよ〉

ともとれると思いますが、やはり、

 うつつなきつまみごころ〈にさせる〉胡蝶〈であることよ〉

ととるほうが、より実感のようなものがわいてきます。ただし、やはり原文通り、

 うつつなきつまみごころの胡蝶哉

と詠むと、例えば、詠み手が胡蝶をつかもうとして、そのつかまれる胡蝶になってしまいそうになっているかのような気持ちすらしてきます。この句はほんとうに想像しはじめると、重層的で意味が固定しがたいものがあると思います。

ところで、

 {(うつつ+なき)+(つまみ+ごころ)}の(胡蝶)哉

というように分けると、助詞は〈の〉と〈哉〉だけなのがわかります。つまり、この助詞〈の〉と切れ字の〈哉〉だけで、この句の意味をすべて決めていると言っていいわけです。おそるべし〈の〉であり、切れ字です。切れ字が大事なのは、俳句の基本中の基本ですが、つくづくこの〈の〉という助詞が「くせ者」に思えてきます。連体修飾の〈の〉は、他にも所有や「としての」や「のなかの」などさまざまな〈の〉もありますし、もちろん主格の格助詞の〈の〉もあれば、〈〜の〉で体言にもなるんですね。なんだか、よくわからなくなってます。

ちなみに、

 凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ
 A flying kite, as in the sky yesterday it is still up there.

この句の解釈も結構、微妙な気がしてきました。この句の場合、「ありどころ」が難しいのですが、その上の〈の〉が拍車をかけてさらに難しいです。凧は目の前にあるのかないのか。凧があるともとれるし、空がある(凧はない)ともとれるし、空も凧もないともとれます。英文を訳すと、

 凧よ、お前は昨日の空のなかに、まだあがっているのだなあ。

となるでしょうか。時間がもどされるような感覚におそわれます。

・・・ますます頭がおかしくなります。

蕪村のこの二句は、やはり時間感覚が特殊なんですね。原因は、まず「つまみごころ」と「ありどころ」という言葉にあると思います。ここには本来動詞にあるべき時勢がない。なぜなら「こころ」と「ところ」という名詞と直結することによって体言化しているからです(それは「つまみ〈しときの〉こころ」なり、「あり〈しときの〉ところ」のようにときをいれて連結したとしても、同じです。過去完了、現在完了、未来完了、いずれの瞬間にもとりえます)。

ちなみに、

 Butterfly in my hand -As if it were a sprit Unearthly, insubstantial.

を直訳すると、

 手の中にある蝶よ、それはまるで架空の魂であるかのようであるなあ。

でしょうかね・・・。原句とはちょっと違う気がしますね。
私があえて口語に訳すなら、以下のような感じです。

 つまめばなんとこの世を離れたような気持ちにさせる、この蝶であることか。

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