菖蒲湯の底まで夕陽子と沈む 飴山實

中七の「夕陽」のあとで切れを入れて詠むと、下五の「子と沈む」にものすごい重力を感じると思います。読み手も湯の中に引きづり込まれて、湯に聴覚が密封されるからでしょうか、現実から遮断されたような感覚に陥るのです。湯に沈んでいる時間は実際はそう長くはないでしょうが、時間の速度が急速に落ちて、時間そのものが永くなったような錯覚を覚えます。湯の底に反射する真っ赤な夕陽の光に、まるで永遠を見ているかのような気すらします。「いる」や「ひたる」「つかる」ではなく、その「しずむ」という言葉が時間の「しずかさ」を喚起させているのではないかと思います。また端午の節句ですから、男の子の元気さが、逆にこの一瞬の「しずかさ」を際立たせています。父と子が一緒に湯の底に沈む。そこにひろがる赤い光が乱反射した世界。言い尽くせぬほど様々な人の心がわきあがってくる一句です。

3件のコメント

  1. お風呂の底まで夕陽が届くお風呂って気持ちよさそうです。
    菖蒲湯に入っているこどもはいくつくらいなんでしょう。
    でも、きっと静かなのは一瞬だけだろうな。
    こどももうっとりするような夕陽に満たされているのかなぁ

  2. つるたさん、どうもです。お子さんのいるかたには、よりぐっとくるものがありそうですね。もちろん、こういう幸せなときはあっという間にすぎていって、実際に経験するようなものではないのでしょうね。あとから、自分の記憶をなぞるようにして浮かんでくる「風景」なのだと思います。

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