めんどりにして蟷螂をふりまわす 飴山實

この句は偶然を劇に仕立てあげている句だと思います。もちろん喜劇ですが、たんにコミカルな笑いだけに終らないのが、この句の凄いところです。なぜなら、そこには偶然性の肯定があるからです。それがあるとないとでは、この句の面白さは雲泥です。巧いのは「にして」です。例えば、「人にして人にあらず」というとき、「にして」は「〜であっても(〜でない)」という意味であって、背反を呼び込みます。「三歳児にしてため息をつく」という場合の「にして」も「〜であって、すでに(〜ではないことをする)」というのも同じです。また「微生物学者にして俳人」という場合の「にして」は「〜であって、かつ」という意味で、異なるものを両立させるのです。さらに、奥の細道の冒頭「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」の「にして」は、「〜であって、しかも」という意味で、大小、長短といった差を無効にするものです。要するに、「にして」は、結びつく必然性のない二物を結びつける。つまり「二物衝突」です。この句では「めんどり」と「蟷螂をふりまわす」とを見事に衝突させているわけです。まさに、この「にして」によって偶然性が肯定されると言ってもいい一句です。

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