吉田修一『悪人』を読んで

冒頭を読むと、書き手の視点が少し厭味に感じられるかもしれない。しかし、読み進めればたちまち、その印象ががらりと変わってくる。まるで透明人間となって、さまざまな人間のかたわらに寄り添い、その言葉にならない複雑な心の声を聞き続けていく、そんな感覚になる。

人は本当にさまざまな宿業を背負って生きている。その宿業のなんたるかを知るものはどこにもいない。親にも、兄弟にも、もちろん本人にも分からない。それでも人はそのあたりまえの、ありのままの、あからさまな現実を生きていく。

この本を読んでいるとき、私は何度か胸がこみ上げた。そのとき心の中で唱えたのは、親鸞上人の言葉だった。《善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや》。善人が成仏できるなら、まして悪人が成仏できないはずがない。この言葉は誤解を生んで、悪事をおかすものが増えたという。もちろん親鸞は、悪人になれば成仏できると言ったわけではない。人は善人にもなるし、悪人にもなる。そのような可能性を誰もが持っている。善人となるのも、悪人となるのも、突き詰めれば、「偶然」の産物だ。この偶然というほかないような因果を宿業としてみれば、親鸞の言葉の意味がよくわかる。

人間そのものは両義的な存在である。しかし、人は己にも他人にもある、その両義性を見失うとき、人を一方的に善人と見なしたり、悪人と見なしたりしてしまう。だから、そういう人をして悪人とされてしまうような凡夫を救うこと、それこそ阿弥陀の本願なのだと親鸞は言いたかったのだと私は思う。

人を殺してしまったこの男は、小説の最後で己が何ものにも救いがたい「悪人」であることに気づく。というよりも、「悪人」となることを積極的に選んだと言ったほうがいいかもしれない。果たして彼はそこで、坂口安吾が救いがないことが救いだと言ったような救いが得られたのかどうか。われわれ読者はここで、人が人をして悪人にも善人にもなる、その両義的な「視差」に立たされるのである。

1件のコメント

  1. 漱石『こころ』の名下りを思い出しました。
    《然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです》。

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