漱石の一句(10)秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ

『元祖・漱石の犬』という本があります。この本によれば、明治30年、漱石は鏡子の流産のあと、その傷を癒すためか、一匹の仔犬を飼ったそうです。写真も遺っています。しかし、その仔犬とは一年で引っ越しの際に別れることとなります。そのあと鏡子の自殺未遂が起ります。漱石はまたすぐに犬を飼います。黒色の大きな犬で、クロという名で呼ばれたそうです。

クロは二年で死んだそうですが、その間に長女筆子が生まれます。その後も順調に子どもが生まれ、漱石と鏡子の間には、二男、五女の子どもが生まれました。

明治32年 長女筆子
明治34年 次女恒子
明治36年 三女栄子
明治38年 四女愛子
明治40年 長男純一
明治41年 次男伸六
明治43年 五女雛子

鏡子は漱石の小説と競い合うがごとく、次々と子を産んでいます。とても、犬を飼うどころではなくなったように思えます。ところが、明治44年に五女の雛子が一歳の幼さで、突然亡くなります。漱石が修善寺の大患から一命をとりとめた翌年の出来事でした。

すると、漱石はまた犬を飼いはじめます。謡の師匠からもらいうけたという、その犬はまだ生まれたばかりの仔犬でした。子どもらが犬に呼び名がないと困るというので、漱石はギリシアの神話に出てくる英雄の名から「ヘクトー(ヘクトル)」と付けました。

詳しくは随筆『硝子戸の中』(大正4年)で触れられていますが、ヘクトーは大正3年に死にます。そのとき、漱石はこんな句を詠んでいます。墓標として板に「わが犬のために」と書いています。

 秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ   大正3年

ヘクトーの死はたいへん寂しいものでした。その死を悼む気持ちが詠まれています。さらに言うと、ヘクトーは雛子を失った漱石の心を癒してきたはずですから、雛子への思いも重ねて詠まれているはずです。 あきらかに、この句を詠むことで漱石は自身の寂しい気持ちを抑えようとしているようです。

前書きには「わが犬のために」とありますが、前書きなしでも成立する句です。その場合、何を埋めたかがないので、まるで寂しさそのものを一緒に埋めてやったと自分自身に言い聞かせているかのようにも思えますし、同時に、この墓を見る人に向けて、そう言っているようにとれます。いずれにしても、自分自身であれ、他者であれ、この墓を見て寂しさを感じるであろう人の心をどこか軽くしてくれる句です。こういうところに漱石のユーモアを感じます。

実はヘクトーの墓標が立てられた時、その隣には猫の墓標も立っていました(『漱石追想』によれば、文鳥の墓標もあったらしいです)。それは『吾輩ハ猫デアル』(明治38年1月~明治39年8月)のモデルとなった猫の墓です。猫の墓標にも句が詠まれています。

 此の下に稲妻起る宵あらん      明治41年

この句、この墓を見ている人に向けて詠まれています。「此の下」とは墓標の下であり、土の中です。稲妻は空に起るものですから、普通の稲妻ではありません。この句が詠まれた経緯は「永日小品」にありますが、死期の迫った猫の目の色が徐々に沈んでいくのを見えていると、そこに「微かな稲妻があらわれるような感じがした」と書いています。明るくなると猫の瞳孔が縦に細くなるのを稲妻と言っているのかもしれませんが、具体的に稲妻がなんであるかは、わかりません。猫の魂のようなものかもしれません。それは土の中だから見えないだけで、猫の魂が目を覚ます夜があるよ、といっているようにもとれます。いずれにしても、普通の俳句ではありません。なぜなら、この句はいわば、『吾輩ハ猫デアル』の猫の墓標との「取り合わせ」になっているからです。

漱石は小説家としては立派だが、俳人としては中途半端だったという人がいるかもしれません。たしかに『虞美人草』以降、漱石は職業としての小説家を自覚していました。しかし、漱石は手紙や日記だけでなく、猫や犬の墓標に鎮魂として俳句を書く人でした。そのことが、俳人としての漱石の有り様を示しているし、現代の俳人と呼ばれる人々に諭すものがあるように思われてなりません。

前にも書きましたが、漱石の俳句は他者に向けて開かれたものでした。そういう意味で「社会的」です。そこが近代俳句と根本的に異なるところといっていいと思います。

ヘクトーの句が詠まれた年、漱石は猫の墓を句に詠んでいます。

 ちらちらと陽炎立ちぬ猫の塚     大正3年

この句は『吾輩ハ猫デアル』の猫の墓でなくとも成り立つ句です。猫が想起する過去が、目の前にぼんやりと浮かんで見える、そういう心の状態へ読む者の心を引き込みます。もちろん漱石の句として読めば、『吾輩ハ猫デアル』の猫は漱石の分身でもあったわけで、消えそうで消えない自分の中にいる他者を読んでいるようにも思えてきます。

『硝子戸の中』に「夢のような心持」という言葉が出てきますが、まさにこの随筆全体がそのような雰囲気をもっています。目の前に見えているものは、今現在のものでありながら、自分はどこか別の世からのぞいているような感覚です。漱石は「古い心が新しい気分の中にぼんやり織り込まれている」と書いていますが、死者が生者の中に面影として「ぼんやり織り込まれている」ように見える。この句にもそのようなまなざしが詠まれているように思えます。

この句が詠まれた時、つまりヘクトーの墓標が立てられる時、猫の墓標はすでに「もう薄黒く朽ちかけ」ていました。

《車夫は筵の中にヘクトーの死骸を包んで帰って来た。私はわざとそれに近づかなかった。白木の小さい墓標を買って来さして、それへ「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」という一句を書いた。私はそれを家のものに渡して、ヘクトーの眠っている土の上に建てさせた。彼の墓は猫の墓から東北に当って、ほぼ一間ばかり離れているが、私の書斎の、寒い日の照らない北側の縁に出て、硝子戸のうちから、霜に荒された裏庭を覗くと、二つともよく見える。もう薄黒く朽ちかけた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々しく光っている。しかし間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼につかなくなるだろう。》(『硝子戸の中』)

人間も又しかり。漱石はそう思っていたに違いありません。漱石自身もその翌年の12月、四十九年という短い人生の最期をむかえました。

<了>

参考:横山俊之『元祖・漱石の犬 』(朝日クリエ)

参考:夏目漱石『硝子戸の中』(青空文庫)
*『硝子戸の中』というエッセイは、新聞連載です。世界大戦が始まり、国内では米の価格下落による不況が起こり、たいへん騒がしい。騒がしい情況を意識しつつも、そうした記事の片隅で、漱石は身の回りの日常を静かに描いています。

参考:【日めくり漱石/‪10月31日‬】「夏目漱石、愛犬の死を知らされ深い悲しみを抱く。」(サライ.jp)‬‬‬‬‬‬‬‬
*漱石とヘクトーについて、詳しく書かれています。また、ここに漱石の《犬は夜を守るの天才なり》という言葉が紹介されています。犬の存在感を見事に言い表しています。

参考:夏目漱石『永日小品』(青空文庫)
《猫は吐気がなくなりさえすれば、依然として、おとなしく寝ている。この頃では、じっと身を竦(すく)めるようにして、自分の身を支える縁側だけが便であるという風に、いかにも切りつめた蹲踞(うずく)まり方をする。眼つきも少し変って来た。始めは近い視線に、遠くのものが映るごとく、悄然(しょうぜん)たるうちに、どこか落ちつきがあったが、それがしだいに怪しく動いて来た。けれども眼の色はだんだん沈んで行く。日が落ちて微かな稲妻があらわれるような気がした。けれども放っておいた。妻も気にもかけなかったらしい。小供は無論猫のいる事さえ忘れている。
 ある晩、彼は小供の寝る夜具の裾にいたのは自分だけである。小供はよく寝ている。妻は針仕事に余念がなかった。しばらくすると猫がまた唸った。妻はようやく針の手をやめた。自分は、どうしたんだ、夜中に小供の頭でも噛られちゃ大変だと云った。まさかと妻はまた襦袢の袖を縫い出した。猫は折々唸って腹這になっていたが、やがて、自分の捕った魚を取り上げられる時に出すような唸声を挙げた。この時変だなと気がついた。
 明くる日は囲炉裏の縁に乗ったなり、一日唸っていた。茶を注いだり、薬缶を取ったりするのが気味が悪いようであった。が、夜になると猫の事は自分も妻もまるで忘れてしまった。猫の死んだのは実にその晩である。朝になって、下女が裏の物置に薪を出しに行った時は、もう硬くなって、古い竈(へっつい)の上に倒れていた。
 妻はわざわざその死態(しにざま)を見に行った。それから今までの冷淡に引き更えて急に騒ぎ出した。出入の車夫を頼んで、四角な墓標を買って来て、何か書いてやって下さいと云う。自分は表に猫の墓と書いて、裏にこの下に稲妻起る宵あらんと認めた。車夫はこのまま、埋めても好いんですかと聞いている。まさか火葬にもできないじゃないかと下女が冷かした。》

参考:Wiki「夏目鏡子
以下のようなエピソードが載っています。
《鏡子が数度目の妊娠で腹が大きくなっていた時、漱石は来訪した友人に向かって「本当に女は妊娠ばかりしやがって、どうしようもない」と愚痴をこぼした。すると友人は真顔で「そりゃ奥さんも悪いかもしれないが、妊娠させる君も悪い」と言った。》
もちろん漱石は鏡子に向かって言っているわけではなく、来客に向かって言った言葉ですが、ひどい言い様です。漱石は聖人のような人ではなかったし、たいへんな天邪鬼でもあり、俗人以上に俗人めいたところもあったようです。

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