一茶と情

先だって、吟行で一茶にゆかりのある炎天寺へ行った。それ機会に、岩波文庫の『一茶俳句集』、加藤楸邨の『一茶秀句』、『金子兜太集第二巻』の一茶の評伝と俳句鑑賞を読んでみた。いろいろと思うところが多すぎて、整理できていないが、一つだけ書いておこうと思う。

それは「情」についてである。

年をとると情にもろくなるといわれるが、最近、それを痛切に感じている。気をつけていても、知らず知らず、情にほだされている自分に気づかない。もちろん日常生活の上では、それでもかまわないだろう。しかし、詩の上ではそうはいかない。

俳句が情に傾きすぎると、甘くなり、べたべたするのは当然であるが、情に傾かなければ、それだけでよいということでもないだろう。傾きすぎてはいけないのは、知、情、意すべてに言える。知に傾けば理屈っぽくなり、意に傾けば作為的になる。それは、まさに漱石が『草枕』の冒頭で書いているとおりである。

《山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る》。

それは、真、善、美と言っても、自由、平等、博愛と言っても、同じことかもしれない。結局、どこか一方に傾けば、俳句は倒れてしまう。つまり、俳句は何ものにも寄りかからず、すっとそれ自体で立たせなければならない。あたかも板の上に卵を立たすかのように。

では、どうすればよいか。漱石は続けてこう書く。

《住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く》。

このあとは、漱石らしい、しつこい書き方が続くのであるが、一般にこれは漱石の「写生論」ということになっている。そこから『草枕』は俳句的小説とも呼ばれることもあるが、これは西洋/東洋、前近代/近代といった図式にあてはまらない、漱石の芸術論でもある。

おそらく、知、情、意の間隙を穿ち、句を立たせる方法は一つではない。むしろ、その方法によって、俳句の性質、俳人の気質が問われることになるのかもしれない。虚子なら「花鳥諷詠」と「客観写生」というだろうし、加藤楸邨なら「真実感合」というのだろうし、金子兜太なら「アミニズム」というのだろう。

では、一茶はどうだったか。

一般的に、一茶は「情け深い俳人」という印象を持たれている反面、情に訴えているから人気が高いにすぎず、だから一茶の句は低俗なのだという評価がある。しかし、加藤楸邨は、そのような見方は、一茶俳句の過小評価なのであって、本質を見失わさせていると指摘する。

例えば、炎天寺で詠まれたとされる、かの有名な〈痩蛙負けるな一茶是に有り〉という句がある。楸邨はこの句についてこのように書いている。

《この句の一茶は、痩蛙に同情する感傷的なものでなく、らんらんと目を光らせた精悍な面貌なのである》。

つまり、一茶は、この「痩蛙」の眼と化して、交尾期の雌をめぐる雄同士の争いに参戦しているというわけである。金子兜太はさらに突っ込んで、一茶は蛙合戦で銭を賭けている気持ちで応援していたとした上で、こう書いている。

《痩せ蛙に同情している句、などと受けとられたら、一茶が赤面するだろう。要するに、蛙も仲間だったのだ》。

仲間とは、一茶と蛙とが同レベルにいるということである。さらに、兜太は「痩蛙」とは一茶の分身なのだとも書いている。分身とは、一茶は蛙との関係を、同情するもの/同情されるものという主客の関係ではなく、対等な関係、いわば同盟関係に立っているということである。つまり一茶にすれば謙遜でも何でもなく、「おれもここにいるぜ」というくらいのニュアンスなのである。

兜太は心情を分けて、心を「ひとりごころ」、情を「ふたりごころ」と読ませる。この「ひとりごころ」は内に向かう感情であって、「ふたりごころ」とは他者に向けて開かれていると説明するのだが、ここで言っている情とは、兜太がいう「ふたりごころ」のことではない。同情とは、文字通り、他者のこころと自己のこころの同一性が前提となっている。自分が思うように相手も思うだろうという「ひとりごころ」に支配されたものである。「ふたりごころ」は開かれている。それは情というよりも「呼びかけ」に近いものであって、応答の余地がのこされている。だから、「ひとりごころ」は同調をせまるだけが、「ふたりごころ」は感応させる。

いずれにしても、一茶の句を同情、感傷、憐憫といった感情で読んでしまうと、その本質を見誤ってしまうというのは事実のようだ。しかし、やはり一方的に読み手の問題ともいえないところが、一茶側にもあるのもまた事実である。

例えば、一茶が三歳で失った母を海に重ねて詠んだ〈亡き母や海見る度に見る度に〉という句(無季)や、五十六歳になって授かった長女をすぐに亡くし詠まれた〈露の夜は露の夜ながらさりながら〉という句。楸邨は、これらの句の繰り返しには、《訴えるような感傷が溢れて、抑えきれぬ甘さがある。この甘さが人を惹き付けるともに、調子のよい感傷に流してしまう弱さでもある》と書いている。その楸邨自身も、一茶の心情を思うと目頭が熱くなると告白した上で、それは、あくまで素材的な共感にすぎず、詩的な燃焼には至っていないというのである。

ただし、そもそも俳句の素材となる一茶の人生そのものが、素材的に同情を誘うようなことだらけであったことは無視できない。つまり、単に一茶が情に流されやすかったのではなく、そのまま詠めば、どうしても「素材的な共感」を読み手に感じさせてしまわざるをえない、そういう人生であったということである(いや、もちろん人生とはそういうものだということもできるが)。

重要なのは、そのような境遇にあって、俗世を脱することなく、むしろ、俗世にへばりつくように生き抜きぬいた一茶だからこそ放ちえた詩の光とは何だったのか。そこを読みとることである。そのためには、まず一茶の人生は一旦括弧に入れて、一茶の句を読まねばなるまい。

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