手をふれて胸まで濡ゝる草の花 飴山實

一読して、疑問をおぼえた人も多いのではないでしょうか。なぜ手を触れただけで胸まで濡れてしまうのかと。

この句には、中七の「濡ゝる」という連体形のあとに軽い切れがあります。この句を「取り合わせ」として詠めば、「草の花」は添え物となります。しかし、上五と中七だけでは、意味が通らない。だから、手を触れているのは草の花であり、この句は一物仕立てとなります。だとすると、なおさらはじめの疑問は強くなるだけです。しかし、よくよく吟味してみると、ある驚きとともに、この句のすごさがわかってきます。

まず上五の「手をふれて」が表しているのは、思わず手を触れてしまうくらい心の動きと身体の動きが一致している状態ではないかと思うのです。だから、「手をふれて」は「胸まで濡ゝる」とは、原因と結果(手を触れたから胸まで濡れたということ)では決してないはずです。

では、「胸まで濡ゝる」とはどういうことか。

俳句では、「草の花」は秋の季語です(ちなみに「木の花」は春の季語)。秋の空気も水も澄んでいます。澄むということは、浸透力が増すということです。つまり、秋は沁み込みやすいのです。だから、「胸まで濡ゝる」とは、水に触れたわけでも、浸かったわけでもなく、内側に何かが沁み込んでくるということだと思うのです。心に沁みるとは言わず、胸が濡れるというところに、「物にたくす」という俳句の神髄を見ます。

説明的に言うならば、誰に知られることもない、名もなき草が咲かせる花の「はかなさ」を感じ、そのかりそめの花の輝きを「惜しむ」、その気持ちを物質的な言葉に託して詠んでいるということになろうかと思います。ただ、そういう一般的な説明をしても、もうひとつこの一句の世界に入ることができないと思うのです。

なぜか。そこは、おそらく下五の「草の花」をどうとらえるか、もっと言うと、季語というものをどうにとらえるか、に関わってくると思います。

「草の花」という季語の歴史は古く、秋の野に咲く花を「千種の花」と呼び、各時代に変化しながらもさまざまな歌人によって歌われてきたそうです。その「草の花」の本意を詳しくは知りませんが、あえて単語として考えるなら、個別の花の名称をさけているということは、さまざまな不特定の花の総称、つまり草の花一般という意味か、その草の花のなかの、ある何か個別(特殊)な草の花という意味のどちらかを表すのが普通だと思います。もちろん、「草の花」に限らず、どのような季語もそのようにとらえうると思います。しかし、どうも季語というものは、そのどちらでもないように思うのです。もちろん、実際に手を触れているのは、草の花一般ではなく、個別の「草の花」には違いありません。しかし、それだけではないと思うのです。しかし、それ以上掘り下げると、季語論になってしまうおそれがあるので、この辺にしておきます。

いずれにしても、この句も「草の花」に成る句だということはいえると思います。飴山實の類いまれなる「浸透力(染まりやすさ)」を証明する一句です。

1件のコメント

  1. 草の花というのは、名も知れずひっそりと咲いています。そして、草の花は露草のように背の低いものが一般的です。その草の花の愛らしさに惹かれて、作者は身を屈めて愛でたのでしょう。その時、朝露に濡れた、草の花より背の高い草(芒のような)に胸が触れ、胸を濡らしたのだと思います。誰もが見過ごしてしまう小さな草の花に目を留め、かがんだ作者のやさしさを感じる句です。

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