なめくぢも夕映えてをり葱の先 飴山實

蛞蝓(なめくじ)は蝸牛(かたつむり)が殻を失う方向へ進化したものだそうです。二本の角のような触角をもち、腹全体がを足裏のようにして這い進む。体はほとんどが水分で、その体表は粘液に覆われおり、塩をかけると体液が外に出てしまう。ただ退治するには、塩ではなく、焼くの一番いいそうです。農作物の葉を食べるのもあって、一般的には嫌がられることが多い生きものですが、俳句はそんな「なめくぢ」すら詩の言葉にしてしまうのです。この句の季語ももちろん、「なめくぢ」。梅雨時、雨上がりの青々とした葱の切っ先に一匹、夕陽に映えて、なめくぢが這っている。なめくぢだけでは気持ち悪いだけかもしれませんが、夕陽の赤と葱の青によって、「なめくぢ」はもはやなめくぢではない何かになっているように思います。上五には、なめくじ「も」とあるように、作者もまた何かになっている。おそらく、それは「融けやすい皮膚」のような何かです。体表には網状に無数の細かな溝が空いている。そこから真っ赤な夕陽が沁み込んでゆき、体液に潤んだ体表が張りつめて光っている。この句を読むわれわれもまた、この「融けやすい皮膚」になることで、世界全体を光潤なものとして感じる。そういう句だと思います。飴山實は《液体に表面張力があるように、俳句全体にゆきわたっている張力がある》と述べていますが、まさに句全体が張りつめた液体のように潤んでいる、そう云っていい一句だと思います。

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