漱石の一句(8)肩に来て人なつかしや赤蜻蛉

明治43年8月26日、漱石は療養中の伊豆で大量の血を吐き、危篤状態に陥ります。数日生死をさまよい、一命を取り留めます。これが世に「修善寺の大患」と呼ばれる事件です。このときのことは、翌年4月に発表された随筆『思い出す事など』に書き記されています。

『思い出す事など』は随筆ですが、ところどころに俳句や漢詩が挿し込まれています。それらはみな危篤状態から意識を取り戻してまだまもないころにできた句であり、詩です。以前、ロンドン滞在中、神経衰弱に陥った状態でも、子規の訃報に対して句を詠んだと述べましたが、漱石は自分が生死の淵をさまよっているときでも句を詠み、詩を詠みます。病によって不自由な状態にある時のほうが、自由に詠めると言います。

《ところが病気をするとだいぶ趣が違って来る。病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他も自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには一人前働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めない長閑な春がその間から湧いて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。したがって、出来栄の如何はまず措いて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらい貴いか分らない。病中に得た句と詩は、退屈を紛らすため、閑に強いられた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、本来の自由に跳ね返って、むっちりとした余裕を得た時、油然と漲なぎり浮かんだ天来の彩紋である。吾ともなく興の起るのがすでに嬉しい、その興を捉えて横に咬み竪に砕いて、これを句なり詩なりに仕立上げる順序過程がまた嬉しい。ようやく成った暁には、形のない趣を判然と眼の前に創造したような心持がしてさらに嬉しい。はたしてわが趣とわが形に真の価値があるかないかは顧みる遑さえない。》(『思い出す事など』)

まるで『草枕』の一説にでもありそうな一文です。そして、このような心持ちを忘れないうちに書きとめようとしたのが、この随筆『思い出す事など』であり、そこに句や詩を挟むのは、その善し悪しとは関係なく、ただこのときの心のありようを伝えたいからなのだと言うのです。

ロンドンから帰国した漱石は大いなる心の傷を癒すかに『草枕』を書きましたが、この『思い出す事ど』という随筆とその中に散らばっている俳句と詩は、胃の傷を癒したと言えるかもしれません。

そこで、私が思い出すのは、小林秀雄のこんな言葉です。

《確かに生の経験の内にリアリティを一番強く感じる、だけどそれはあまり生々しすぎるのじゃないでしょうか。だから創作があるのでしょう。創作はいつでも一つのフォーム(形)を取る。その形に、その生の経験を仕立て上げなければならない。創作の喜びというのは、その経験を形に仕立て上げる喜びです。その喜びは人のためではない、自分で自分の経験を整理したいという要求なのです。「生の経験」といい、「生だ、生だ」と言うけれど、本当は誰もこれについての自覚を持たぬ。経験を味わってみないものです。》(「経験と創作」)

どんな経験であれ、それが生きた経験として味わえるようになるには、形がいる。経験の生々しさに形が与えられるまでの時間、おそらく、漱石はこの「経験を形に仕立て上げる喜び」を大いに感じていたはずです。

なので、今回はあまり句そのものについて、あれこれ分析しても仕方がありません(今回に限らず漱石の句はその善し悪しを云々しても仕方がないものばかりですが)。ただ、漱石の心のありようを見ていきたいと思います。

  秋の江に打ち込む杭の響かな

澄んだ秋空に杭の音が響き渡る。意識を取り戻して十日ばかりしたとき、漱石は何度かこんな感覚に見舞われたそうです。

  別るるや夢一筋の天の川

見舞いに来た東洋城と別れるとき、夢うつつの中でできた句。漱石は《風流のうちでも、ここにあげた句に現れるうような一種の趣だけをとくに愛していた》と書いています。

  秋風や唐紅の咽喉仏

実況のように口に浮かんだ句。漱石は胃潰瘍の悪化により、大喀血をして意識を失いました。

  朝寒や生きたる骨を動かさず

意識を取り戻して、明朝、貧血のせいでしょうが、自分の腕が持ち主を失ったように動かなかったと書いています。

  腸に春滴るや粥の味

しばらく葛湯や重湯など不味いものしか食べられないとき、漱石は立派な食事を想像でこしらえたと書いています。やっと許された粥のうまさ。「沁みる」ではなく「滴る」とするところが、漱石の胃袋の状態を現しているようにも思えます。

  肩に来て人懐かしや赤蜻蛉

この句は「人よりも空、語よりも黙」という言葉の後に書かれています。直前に《自然を懐かしいと思っていた》と書いていますから、意識(自分)と自然(赤蜻蛉)の関係を反転させて詠んでいるのでしょう。一度死に、そして生き返って仰ぐ秋の空。赤蜻蛉が生々しい。

以下は、漱石が同時期に手帳に書き残した句です。

  秋風やひゞの入りたる胃の袋
  逝く人に留まる人に来る雁
  生残る吾恥かしや鬢の霜
  生き返るわれ嬉しさよ菊の酒
  生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉
  朝寒も夜寒も人の情かな
  ぶら下る蜘蛛の糸こそ冷やかに

かろうじてこの世に生き延びた漱石は、その翌年から年一作のスピードで『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』『明暗』(未完)と書き上げていきます。晩年といっていい数年ですが、生かされた命をすべて文学に注ぎ込みました。何かに書かされるかのように。

夏目漱石『思い出す事など』
*漱石はこの随筆の中でドストエフスキーの話をしています。修善寺の大患以後の漱石の文学に、実はドストエフスキーが大きな影響を与えていると言われています(たとえば『明暗』の小林のような登場人物)。漱石は、死刑宣告を受けていながら、死刑台の上で死を免れたドストエフスキーと自分を結びつけているわけですが、この話の裏にあるのは「大逆事件」です。大逆事件は修善寺の大患と同年に起きます。漱石は直接的な言及をしていませんが、「イズムの功過」のような講演に、イズムに盲目的に支配されることに対して批判的な主張をしています。ただし幸徳秋水や大石誠之助のように冤罪で死刑になったものがいます。漱石の博士号辞退は、幸徳処刑の一ヶ月後の出来事であり、そこになんらかの関係がありそうな気もしてきます。

夏目漱石『イズムの功過
夏目漱石『明暗

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