漱石の俳句(7)筒袖や秋の柩にしたがはず

運命とは残酷で、また面白いものです。明治三三年、漱石は文部省から英国ロンドン留学を命ぜられます。漱石の俳人としての運命は一旦ここで断ち切られることになるわけです。もし、このまま漱石が俳人としての道を進んでいたら、いったいどんな句が生まれていたか。ここには今なお新たな可能性が秘められていると思わずにはいられません。しかし、英国ロンドン留学後も数は減りますが、漱石は俳句を詠み続けています。

むしろ、習作の段階が終わったに過ぎず、詠むべき時に詠むべき句を詠んだと見るべきなのかもしれません。

明治三四年九月、子規が死んだとき、漱石はロンドンにいました。一一月になって子規の訃報を知らせる虚子の手紙が届きます。漱石は子規追悼文を返送しますが、そこに「倫敦にて子規の訃報を聞きて」と前書きをした句が詠まれています。

筒袖や秋の柩にしたがはず
手向くべき線香もなくて暮の秋
霧黄なる市に動くや影法師
きりぎりすの昔を忍び帰るべし
招かざる薄に帰り来る人ぞ

末尾に「皆蕪雑(ぶざつ)句をなさず」とあり、漱石の動揺ぶりが伺えます。当時、漱石は神経衰弱、今でいう鬱病を発症していました。この時ちょうど、文部省から命じられて一二月に帰国するところでした。

そんなぎりぎりの精神状態の中であったにも関わらず、漱石は手紙に俳句を詠むわけです。まず、そのことに驚かされます。これは単なる「創作意欲」などというものではないし、「義理人情」という言葉でも軽いものがあります。どんな状態にあっても、死者となった人生最大の友を悼む、純粋な力が俳句を詠ませるのだと思います。

そして、もう一つ驚かされるのは、漱石がたとえ最悪の精神状態であっても、句が詠めるだけの力を修行時代に身につけていたということです。

話は少し変わりますが、先日、身近な方の死をテーマに俳句を詠まれたAさんから、気になる質問を受けました。「この連作、ぜんぶフィクションだったらどうですか?」と。その方は俳句の創作過程で「これはフィクションでも作れる」と思ったそうなのです。

これは私にとって、俳句における虚実の問題をあらためて考えさせられた出来事でした。このとき、私は「おそらく句の評価が変わらないと思いますが、句を作った人間の評価は変わると思います」と答えました。しかし、そう答えながらも、どこかしっくり来ず、気になるものが残りました。

たしかに、自分の経験したことでなければ句が詠めないわけではありません。王朝時代の歌も、行ったことのない場所を詠んだり、してもいない恋を詠んだりすることは普通でした。いまでも連句を巻くときなどは、経験を離れて、時代や場所を越え、年齢や性差も越えて、自由な想像だけで句を詠みます。Aさんが「フィクションでも作れる」と思ったのは、考えてみれば当然です。

フィクションは偽り(False)ということではありません。むしろ、想像力によって創作されるものは、すべてフィクションです。真偽については括弧に入れる。善悪や美醜、聖俗などについても、実は同様に括弧に入れます。俳句は創作である以上、事実の報告ではないし、また完全な絵空事でもない。

猿を聞人捨子に秋の風いかに (野ざらし紀行)

上五の「猿を聞人」は、猿の鳴き声に涙した詩人・杜甫のことです。杜甫は、子どもをとられて鳴く母猿の腸がずたずただったという故事(「断腸」の語源)をふまえた詩を「秋興八首」の中にのこしています。芭蕉は、捨て子に《袂より喰物なげてとをる》、つまり食べ物を投げてやっただけでそのまま見捨て行ったと書いています。しかし、この捨て子が実際にいたのかどうかは、さだかではありません。

一家に遊女も寝たり萩と月  (奥の細道)

この芭蕉の句も実際の出来事なのかどうなのか、よく語られますが、現実か否かはっきりしません。むしろ、実際の出来事なのか、フィクションなのかが問われるようになったのは、近代以降と言っていいと思います。

柳田国男は「故郷七十年」のなかで、若いときに作詩、作歌の題詠の稽古をしたことが、一種の情操教育となったと述べています。つまり、実際の恋を知らないうちに、恋の歌の詠み方を教養として身につけたということです。

そして過去を振り返ってみて、《ロマンチックなフィクションで、自分で空想して何の恋の歌でも詠める》という側と《自分の経験したことでなければ詠めない》あるいは《ありのままのことを書く真摯が文学だ》という側との二つの対立を経験したと書いています。

では、漱石はどうだったか。

その前に子規はどう考えていたかいうと、子規は『俳諧大要』のなかで、こんなことを言っています。

《空想と写実を合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず、空想に偏璧し写実に拘泥するものはもとよりその至る者に非るなり》(正岡子規『俳諧大要』)

漱石もどちらにも与せず、調和すべきと論じました。

《かくして人心の向上に念がある以上、永久にローマン主義の存続を認むると共に、総ての真に価値を発見する自然主義もまた充分なる生命を存して、この二者の調和が今後の重なる傾向となるべきものと思うのであります。》(『漱石文明論集』「教育と文芸」岩波文庫)

漱石がこだわったのは、そもそも「文学とは何か」という問題でした。ロマン主義であれ自然主義であれ、それが文学であるならば、そこには同様に立脚すべき何かがなければならないと考えていました。この「文学とは何か」という問いに正面から向き合い(『文学論』)、そして行き詰まったあと、漱石が見出したものは「自己本位」ということでした。

漱石は大正三年、東京高等工業学校の学生たちへの講演で、科学者と文学者の違いについて、こんなことを言っています。

《あなた(工業学校の学生)の方では技術と自然の間に何ら矛盾はない。しかし私どもの方には矛盾がある。即ちごまかしが効くのです。悲しくもないのに泣いたり、嬉しくもないのに笑ったり、腹も立たないのに怒ったり、こんな講壇の上などに立ってあなた方から偉く見られようとするので――これはある程度まで成功します。これは一種のartである。(中略)かくartは恐ろしい。われわれにとっては、artは二の次で、人格が第一なのです。人格といったってえらいという事でもなければ、偉くないという事でもない。個人の思想なり観念なりを中心にして考えるということです。一口にいえば、文芸家の仕事の本体即ちessenceは人間であって、他のものは付属品装飾である。》(同「無題」)

虚実や真偽といった対立だけではありません。中味と形式であれ、オリジナルと模倣であれ、主観と客観であれ、対立するものはどちらかがあればいいわけではない。両方にいい面と悪い面があるのは当然です。漱石にとって、それらは二次的な付属品であり、重要なのは、自己という人間に立脚することでした。それは現代を生きる我々にとっても、少しも変わらぬ問題のように思えてなりません。

*:夏目漱石『無題
*:正岡子規『俳諧大要

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