白山の初空にしてまさをなり 飴山實

実にすっきりと、くっきりとした句です。「まさを」と言えば、富安風生の〈まさをなる空よりしだれざくらかな〉という有名な句があります。この風生の句は桜がしだれて、迫ってくるような動きを主題をする句ですが、飴山の句は潔く、空の青さにぐっと焦点をしぼりこんで詠んでいます。もちろん、桜の頃の空よりも、冬空のほうが湿度が低い分、より青いということはあるでしょう。しかし、俳句は言葉で組み立てるものです。空の青さを引き出しているのは、まぎれもなく白山の「白」と、初空の「初」という字です。白という字があるから、青がより青く、つまり「まさを」となり、そして身もこころもあらたまる、この初という字が、青に「清らかさ」を喚起させるのだと思います。

余談ですが、誤解がないように言っておくと、この句は白山の空の青さという事物が客体側にあって、それを認識する主体の側に「清々しさ」という観念が生じるということでは、もちろんありません。この句に限らず、飴山實は主体が客体の中に溶け込んでしまうような世界を作り出そうとしている俳句が多いと思うのです。つまり、この句を読む私の心の中にも、この「清らかさ」や「清々しさ」を濃縮したような青さが、重みをもってしみ込んでくるかのようです。

もちろん、このようなリアリティというものは必ず転倒によって生じるわけです。そんなことは分かりきったことです。しかし、このような俳句にある転倒は、日本近代文学におけるロマン主義とも自然主義とも、似て非なるものです。にもかかわらず、和歌に代表されるような古典主義とも明らかに異なっており、むしろ日本近代文学の唯一の「生き残り」なのではないかとすら思えるところもあります。

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