初花を見つゝ来にけり豆腐売 松瀬青々

※書き直しました。

挨拶句という言葉がありますが、そもそも俳句は「挨拶」なのだとこういう句を読むとつくづく思います。

「挨拶」とは「他者」へ投げかけるものです。もちろん投げかければいいというものでもありません。なぜなら、一見投げかけたように見えても、それが己に返ってくるようにできていれば、「挨拶」ではないからです。「挨拶」は「他者」に向かって「放り出す」ようなかたちで、投げかけるものでなければならない。つまり、自己完結してしまっては、「挨拶」にはならないということです。

自己完結していないということは、句の意味を曖昧なままにしておくということではありません。むしろ、投げかける側(詠み手)は、句の意味がはっきり判るように言葉を選ばねばならない。決定できないものは、意味ではなく、投げかけられる側の心です。つまり、投げかけられる側に多様性が、自由が確保されているかどうかが重要なのです。要するに、それが「対話性」であり、「他者性」ということです。

松瀬青々の句には、とりわけこの「他者性」を感じさせる句が多いと思います。例えば、この句の場合、豆腐や豆腐売のもっているイメージ、具体的には豆腐の白、豆腐を沈めた水、さらに豆腐売の移動性や豆腐売のラッパの音など、そういうイメージはきれいさっぱり潔く捨てられています。つまり、この句はイメージの世界に閉じこもらせずに、「他者」に向き合わせるのです。

そこで問題となるのは、その「他者」はどこにいるのかということです。解釈をするのも野暮でありますが、この句で青々は、豆腐売がいつもよりなんだか陽気だったのか、どこかに花びらをつけていたのか、いずれにしても豆腐売を介して初花を感じることができたことに驚き、なんと喜ばしいことだと興じているわけです。単純な構図で考えれば、「初花」=他者、「豆腐売」=媒介、詠み手=主体という関係、もしくは「豆腐売」=他者、「初花」=媒介、詠み手=主体という関係が見えてきます。つまり、この句は「初花」あるいは「豆腐売」への挨拶だということになるはずです。そして、詠み手(主体)の位置に、読者の心を誘ふ。そういう「挨拶」だと考えることができると思います。しかし、「他者性」とはそんなものだろうか。安易に「初花」=他者、あるいは「豆腐売」=他者としてしまうと、この「他者性」が消えてしまいはしないだろうか。

「初花」そのものは物自体です。俳句における「他者」とは「初花」という物自体に対してさまざま心を寄せてきた人々であり、また今こうしてこの句を読んで「初花」から多様な世界を感じとる人々であり、そしてまた未来において「初花」に自由に思いをはせる人々のことです。もちろん、そこには「初花」に無関心な人も入るし、そもそも日本語の詩を知らない外国人も入るはずです。つまり、「他者」とは物自体であると同時に人でもあるということです。

この句を読んで気持ち良さを感じるのは、読む前と後とで何かが変わっているからです。句を通して、松瀬青々が触れた「他者性」に読者もまた触れる。そこで心の共振がおきて、何かがリフレッシュされる。俳句を詠む(読む)ということは、そのような「他者」との間に心の「更新」を行なうことなのではないかと思います。共感(シンパシー)というものと似ていますが、どこか違うように思います。なんと、言っていいか分かりませんが、少なくとも俳句が「挨拶」であるいうとき、このことを忘れてはなならないと思うのです。

1件のコメント

  1. 〈豆腐売けさの寒さをいひにけり〉という、櫂さんの句は、この青々の句をふまえていると思われます。

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