オランダの風景

飛行機がオランダの玄関スキポール空港に近づく。その機体は、U字に開いた湾を一直線に閉じる巨大な堤防の上を通過する。空から見れば、明らかにそこは湾、つまり海に見える。しかし、今そこは「アイセル湖」と呼ばれる。つまり、淡水の湖なのである。

そこは、数百年前までは度重なる高潮や洪水によって海水が入り込んだ泥炭の湾だったが、20世紀になって農地を広げるため巨大な堤防を築き、海水をとりのぞき真水の湖に変えられた。これはとんでもない変更である。海洋から淡水に変えるということは、そこに生きるものたちの生態系も変えてしまうということでもある。

しかし、この発想はいったいどこから来るのだろうか。

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空が高い。アムステルダムの街を歩いて、そう感想をもらした人も多いかもしれない。もちろん空が高いのではなく、土地が低いのである。さらに、その土地が平坦だから、なおさらそう感じる。その平坦な土地には、無数の運河が血脈のように張り巡らされている。運河の水面が、明らかに地面よりも高い位置に見えるところも多い。

オランダの国名のNetherlandはLowland(低地)という意味でもあり、その国土の大半が海面より低い。そもそも、そこは泥炭地だった。約一千年前にオランダに移り住んだ人々は、幾度となく洪水に悩まされながら、築堤、治水、灌漑によって、自らが安心して暮らせる土地を造成してきた。つまりオランダの地は、人間が干拓によって造った場所なのである。だから、オランダ人は、「世界は神が創ったが、オランダだけは人間が造った」と自負する。

オランダの画家であるエッシャーは「重力をからかいたくなる」という言葉をのこしているが、それは洪水にさんざん悩まされてきた人々の本音なのだ。水は高いところから低いところに流れる。もちろん、それが自然だ。しかし、オランダ人にはその自然を人の手で制御しなければならない動機がある。それは、オランダの土木技術の先進性や、あるいは建築の例を見れば、明らかだ。

ロッテルダムにあるオランダ建築博物館に行くと、無数のパース図を時代ごとに見ることができる。それらを見ていくと分かるが、オランダの地とは、人間が干拓地の上に白紙をのせ、運河というグリッド線に沿って図を描いてきたような場所なのだ。そこに、いくら高い樹々が並び、多様な草花が生い繁ろうと、そこは明らかに人間が造った「自然」なのだった。

自然と人間の関係。それをデザインの始源だとするなら、オランダのような過酷な地に生活を求めた人々のデザインとは、まさに「人間が自然を建築する」という態度をとらざるをえないということなるかもしれない。

そう思うと、まさに大堤防と平坦な低地が、オランダという場所で人間が自然と関係を結ぶ条件のように見えてくる。つまり、自然が生み出すものと、人間が造り出すものとを、安易に区別してはならないという条件である。オランダの平らな地とは、おそらくそのような不可能な地平にほかならない。

このオランダの風景は、今や全世界を覆っている。我々の暮らしている環境はもはや「ありのままの自然」ではなく、どこかで人の手が入ってできた、言わば「第二の自然」だ。東京に暮らしていると普段は忘れているが、東京にも河川を埋め立てられてできた土地は多い。「第二の自然」はもちろん土地だけのことではない。例えば、食べ物もそうだ。ある県の水産局の人の話によれば、その県では、タイやエビやヒラメといった水産物の多くを卵からふ化させて、定期的に稚魚を海に放流している。天然のものは既にほとんど生息しておらず、水揚げされる水産物の多くは、放流された稚魚が成長したものなのだ。つまり、日本の漁業にとっても、天然と養殖の境界があいまいになっている。また捕獲制限をかけられている回遊魚のマグロは、既にこの日本をはじめ、オーストラリアやスペインでも養殖を行なっている。

このように農産物や水産物においても、この「自然」という定義そのものが問われる事態となっている。さらに言えば、成長ホルモンやら遺伝子組み換えやら、もちろんクローンもそうだが、生物化学テクノロジーの進化の加速は、生物そのものを人工物に近づけている。ヴァレリーは『人と貝殻』という論文の中で、貝殻を見て「これは誰がつくったのか」と問ふ。私が答えるとすれば、「自然とそうなった」だ。しかし、もはや「人がつくったかもしれない」と答えうる日が来るのも近いのだ。つまり、自然の定義が揺らいでいるように、人間の定義を変更せざるをえなくなる方向に、自然と人工の境界を曖昧にするテクノロジーは進んでいると言っていいだろう。

そこで、まさに「自然環境保護」というスローガンをかかげた運動が、足下をすくわれる。自然と人間との均衡関係が形式においてでも成立していた時代であれば、人間が一方で自然を破壊し、その一方で自然を守るということでよかった。しかし、もはやそう簡単にはいかない。破壊と保護の境界そのものが曖昧なのだから。

そこで、人間が関与する自然は、人間が制御管理できるものであると同時に、人間自身がその一部に組み込まれてしまうような全的なシステムとして見なければならないという考え方が出てくる。そこでは、動植物も、建造物も、あるいは国家や貨幣も、そのシステムを構成するモジュールやアプリケーションとして見なされるのだ。

カナダ人のデザイナー、ブルース・マウは自らも「第二の自然」と呼ぶこの全的なシステムに対して、デザインが果たす役割の重要性を主張している。システムに関与するものがデザインだというのだ。そして、デザインされたシステム自体は目に見えないが、事故が起きたとき、それを目の当たりにするというのである。

《事故、災害、危機。システムが崩壊したとき、われわれははじめてデザインのすさまじい波及力とパワー、それが生み出した影響を一時的に意識する。事故が起こるたびに、本来の生活がいかなるものであるかを意識する一瞬があり、何が実際に起こっているのかを、生活を下支えしているデザインのシステムを知ることになるのである》(『マッシブ・チェンジ』2004年)。

私たちは普段、蛇口をひねれば水が出てくることも自然だし、電車が時間通りに来ないことを不自然に思ってしまう社会に生きている。そして、そこに不具合に生じたとき、そのシステムが如何にデザインされていたかを知ることになる。マウは、このように複雑にデザインされているシステムを読み解くことの必要性を主張する。もちろん、それを読み解いていくことの重要性は否定しない。しかし、このような考えには、いくつか疑問が湧いてくる。例えば、事故や災害によって露見するのは、システムそのものではなく、そのシステムの限界なのではないのか。そして、そのシステムの限界を(事後的にではあれ)システムの中に回収していく、そのような動的で且つ全的なシステムで十分なのか、といった問いだ。

おそらく今世紀、世界はこのままでは恐ろしいほどの変貌をきたすだろう。しかも、その変貌にほとんど気づかないうちに。そして、その変貌に気づいたとき、その恐ろしさからもう逃げられなくなっているかもしれない。そうならないようにするには、どうしたらよいのか。考えることをやめてはならない。

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