俳句という石垣

飯田龍太はある俳話の中で、俳句を野面(のづら)積みの石垣にたとえている。

《一見無造作に見えて驚くべき合理性とその耐久力は、石の見える部分より見えない部分に何倍かの力が隠されているためであるという。しかも、あの石垣は、何百何千という無名の石工の、永い伝統に培われた技術が生み出したもの。そこには、ホンモノの姿を、まざまざと見せてくれる真の伝統の美しさがある》(『飯田龍太全集第七巻』)。

野面積み石垣は、現代のコンクリートとスチールとガラスで構成された近代建築にあるような気密性はない。石と石は微妙な隙間を空けつつ、互いに組み合っている。だから、いかに耐久性があるとはいえ、長い年月をかけて積み上げていれば、当然崩れることもあるだろう。しかし、石工はそれまで培われてきた技術に則って、すぐにそこを修繕、補強する。

たとえ、このたびの大地震のように一気に百年、千年という時間が巻き戻されたとしても、また無数の新たな石工たちによって石垣は再生されるだろう。

龍太が「永い伝統に培われた技術」と呼んでいる技術とは、近代建築にあるような設計の技術とはあきらかに異なっている。石工の技術は、野面という過酷な環境下において長い年月の絶え間ない変化にさらされながら、それでも一定の秩序を維持するような石の積み方である。

たしかに、合理的に積み上げる方が、早く大きく積みあがるかもしれない。しかし、野面においてはそうはいかない。高いところに積むのと、底辺に積むのとでは、技術も変わってくる。また、積みあげる場所や環境によっても積み方は変ってくる。

つまり、龍太が言う「伝統に培われた技術」とは、画一なものではない。むしろ、どんな状況においても、一定の秩序を維持し続けることのできる、変化に富んだ技術というべきであろう。

石工はその技術を過去の石工たちから引き継ぎ、またそれを未来の石工へとつないでいく。つまり、技術は時間的なつながりをもった石工の連なりの中に存在する。

この「何百何千という無名の石工」である、無数の俳人たちは、結社に属す、属さないに関わらず、俳句を日々生産し続けている。おそらく、その時間的なつながりを自覚していようといまいと、ただ積み上げ続けている。俳人は、その実践的な持続のなかにしかありえない。

ところで、最近、この石垣の持続性が、生命の持続性と共通点があるということを知った。

分子生物学者である福岡伸一曰く、生命体は分子レベルにおいて、常に新しいものに入れ替わっている。細胞のタンパク質はアミノ酸という分子が結合して構成されていた高分子であるが、成長過程のときだけでなく、成体となったあとでも、分子レベルで常に更新されているというのだ。

髪の毛や爪を例に見れば分かりやすいが、身体そのものが分子レベルの代謝によって保たれているということである。福岡はその仕組みを説明するのに「砂の城」のメタファーを使っている。その「砂の城」には、石工の代わりに精霊が登場するだけで、龍太がいう石垣とよく似ている。

《砂の城がその形を保っていることには理由がある。眼には見えない小さな海の精霊たちが、たゆまずそして休むことなく、削れた壁に新しい砂を積み、空いた穴を埋め、崩れた場所を直しているのである。それだけでない。海の精霊たちは、むしろ波や風の先回りをして、壊れそうな場所をあえて壊し、修復と補強を率先して行っている。それゆえに、砂の城は同じ形を保ったままそこにある。おそらく何日かあとでもなお城はここに存在していることだろう》(福岡伸一『生物と無生物のあいだ』)。

ひざを擦りむいても、骨を折っても、ちゃんと治せば復元される。そのような自己修復力が分子レベルにおいて備わっているということである。続けて、福岡はこういう。

《しかし、重要なことがある。今、この内部には、数日前、同じ城を形作っていた砂粒はたった一つとして留まっていないという事実である》。

この話だけでも十分面白いのだが、石垣と石工のように俳句と俳人の関係に置き換えて想像すると、龍太のいいたかったことがよりはっきりしてくるように思える。それは、俳句は一つの生きもののように存在しているということである。さらに、福岡は興味深い言葉を記している。

《秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない》。

生命の持続に必要なのは、修繕や補強だけではない。むしろ、自ら壊れつつ維持できるような、柔軟性や代謝力である。

生命とは「絶え間なく壊される秩序」である。これを、福岡はある生化学者の言葉を借りて「動的平衡」と呼ぶが、おそらく俳人はここで芭蕉の不易流行という言葉を思い起こすのではないだろうか。

「石垣は見えるところよりも見えないところに力が隠されている」と龍太はいった。本当の力は、見えないところに蓄えられている。そのような隠れた力を、自らが壊しつつ掘り出してきて、未来の力に転じていく。

俳句に、もし「ホンモノの姿」があるとするなら、それはおそらくこのような生命の姿に他ならない。

*このエッセイは2012年『古志青年部年間集』に掲載したものを書き改めています。

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