子規の手紙について

正岡子規は明治35年9月に、35歳という年で帰らぬ人となります。『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』は、その死の直前2年にもみたない期間、つまり 子規の死期に書かれたものです。明治34年の10月、執筆中の『仰臥漫録』を精神錯乱によって中断するのですが、11月にロンドンにいる夏目漱石に手紙を 送っています。このあと、子規はモルヒネを常用することになります。『病牀六尺』は妹による口実筆記です。

明治36年の1月、漱石は帰国します。子規の死は、漱石の帰国と関係があると、僕は思っています。漱石は子規の死と同時に、自らも一度、死んだの ではないかと思うのです。学者としての挫折を受け入れたのではないかと。「文学とは何か」という大問題を理論づけようとしていた漱石と、「詩とは何か」と いう大問題と格闘した子規とは、いわば双子の兄弟のようなものだった。子規は「俳句」の単独性を理論的に示すことによって、詩の普遍性を獲得できると考え ていた。それが「俳諧大要」の書かれた動機だと思います。同様に、漱石は「文学論」を書いた。そして、子規の死による挫折を通して、漱石もまた異国の地に て挫折を経験する。

漱石は子規への返事が書けなかったことを生涯悔やんでいたといいます。明治38年に漱石が「ホトトギス」に書いた小説『吾輩は猫である』は、子規への返せなかった手紙の代わりであったのだと思います。

昨年の漱石展で、僕は子規の手紙の実物を見ました。末期的な脊椎カリエスで全身に激痛を走らせる子規の「僕はもうだめになってしまった」に始まる 文のなかで、とつぜん「ロンドンの焼き芋の味はどんなだ」と聞く、この子規の人柄に、僕は漱石に通じるユーモアを覚えずにいられません。

僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日譯【わけ】モナク號泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雜誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廢止。ソレダカ ラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思ヒツイテ特別ニ手帋ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近來僕ヲ喜バセタ者ノ隨一ダ。僕ガ昔カ ラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ殘念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヤウナ氣ニナツテ 愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)
畫ハガキモ慥【たしか】ニ受取タ。倫敦ノ燒芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。
不折ハ今巴理ニ居テコーランノ処ヘ通フテ居ルサウヂヤ。君ニ逢フタラ鰹節一本贈ルナドヽイフテ居タガモーソンナ者ハ食フテシマツテアルマイ。
虚子ハ男子ヲ擧ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤツタ。
錬卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマツタ。
僕ハ迚【とて】モ君ニ再會スルコトハ出來ヌト思フ。萬一出來タトシテモ其時ハ話モ出來ナクナツテルデアロー。實ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰來」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。

明治卅四年十一月六日燈下ニ書ス
東京 子規拜
倫敦ニテ
漱石兄

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