漱石の俳句(2)木瓜咲くや漱石拙を守るべく

漱石の俳句でもっとも有名なのは、明治三〇年、熊本時代の次の句ではないでしょうか。

 木瓜咲くや漱石拙を守るべく

この句は、陶淵明の詩「帰園田居」に出てくる「守拙帰園田」(拙を守って園田に帰る)が下敷きにされています。陶淵明と異なるのは、漱石の故郷は田園ではなく、東京という都市だったということです。子規は『墨汁一滴』でこう書いています。

《漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。》(正岡子規『墨汁一滴』)

つまり、漱石はそもそも稲の苗を見て「これは何の草だろう」という人なのです。そういう人間が、東京の高等師範学校の教師を辞職し、松山に一年、そして熊本へ赴任した自分に「拙を守るべく」と言い聞かせているわけです。この二重性に、漱石独自なユーモアが隠れているように思えます。

この句の鑑賞は『草枕』にある次の一節が、度々引き合いに出されます。

《木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直かと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔らかい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守ると云う人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。》(夏目漱石『草枕』)

陶淵明の詩には、木瓜の花は出てきません。この一節を陶淵明の隠遁思想だけで理解するのは、むずかしいのではないでしょうか。そこで、理解の助けになるのは、老子の言葉です。それは陶淵明の詩よりもずっと古い、老子の言葉です。長いですが、以下に引用します。

《大成若缺、其用不弊。大盈若沖、其用不窮。大直若詘、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。清靜爲天下正。

大成は欠けたるが若きも、其の用は弊(すた)れず。大盈(たいえい)は沖(むな)しきが若きも、其の用は窮まらず。大直は屈するが若く、大巧(たいこう)は拙(せつ)なるが若く、大弁は訥(とつ)なるが若し。躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静は天下の正(せい)と為る。

【訳】大いなる感性は欠けているように見えるが、その働きは衰えない。大いなる充実は空虚のように見えるが、その働きは窮まらない。大いなる直線は屈折しているように見え、大いなる技巧は拙劣なように見え、大いなる弁舌は口べたのように見える。活発に運動すれば寒さに勝ち、じっと静かにしていれば暑さに勝つ。さっぱりとして静かであれば世の中の模範となる。》(『老子』蜂屋邦夫 訳/岩波文庫)

この老子の言葉から何を読み取るかは、人によって異なるかもしれません。しかし、『草枕』の言葉に戻ると、漱石が「木瓜の花」に拙なるものを感じとった理由がわかってきます。『草枕』での木瓜の花の描写は、この「大直は屈するが若く」(大いなる直線は屈折しているように見える)ということにほかなりません。

いずれにしても、この句の「守拙=木瓜」とはあくまでも理想であって、そううまくいかない現実があるという含みがあります。その証拠に、自分で自分に言い聞かせるように「漱石」という名を句に入れています。ここにも「自己完結しない」という姿勢が見られるわけです。あくまでも、自己の内部においても、この二重性(他者性)を失わないのです。

さらにここで、あらためて驚くのは、『詩経』で「詩は志なり」といわれるように、漱石が理想を句に詠む人だったということです。

漱石の年齢は明治の年号と一致するのでわかりやすいですが、明治一〇年代に自由民権運動、明治二〇年代に逍遥と鴎外による没理想論争、そして明治二七年に日清戦争がありました。木瓜の句は、明治三〇年という理想を語ることの難しさに直面した時期に詠まれているわけです。子規も晩年、理想を詠むことについてこう言っています。

《理想の作が必ず悪いといふわけではないが、普通に理想として顕れる作には、悪いのが多いといふのが事実である。理想といふ事は人間の考を表はすのであるから、その人間が非常な奇才でない以上は、到底類似と陳腐を免れぬやうになるのは必然である。固より子供に見せる時、無学なる人に見せる時、初心なる人に見せる時などには、理想といふ事がその人を感ぜしめる事がない事はないが、ほぼ学問あり見識ある以上の人に見せる時には非常なる偉人の変つた理想でなければ、到底その人を満足せしめる事は出来ないであらう。》(正岡子規『病牀六尺』)

漱石はなかなか難しいことをやっているわけです。少なくとも漱石は「非常なる偉人の変つた理想」を詠んだと言うことができます。

では、なぜ漱石はそれができたのでしょうか。そのヒントになる言葉があります。中国明時代の『菜根譚』になると、老子の言葉をやさしくしたようなものです。

《文以拙進、道以拙成。一拙字有無限意味。

 文は拙を以て進み、道は拙を以て成る。一の拙の字、無限の意味あり。

【訳】文を作る修行は拙を守ることで進歩し、道を行なう修行は拙を守ることで成就する。この拙一字に限りない意味が含まれている。》(『菜根譚』洪自誠 著、今井宇三郎 訳/岩波文庫)

当時、日本は「文明開化」と言って、急速に西洋化を推し進めていた頃です。漱石の有名な講演『現代日本の開化』(明治四四年)で、西洋が百年かかってやったことを日本は十年でやらなければならないのであって、それは「皮相上滑り」の開化であると言っています。本質的なものをつかむ前に、表面だけで理解したつもりになって進んでいく。しかも、それは誰も止められない。そういう日本を危惧していたからこそ、木瓜の姿に「拙」という理想をみたのだと思うのです。

これは漱石個人の理想のようでいて、実は日本の近代批判を含んでいる句にも思えてきます。少なくとも、頑固で、不器用で、愚直な生き方をしたいと独り言をつぶやいている句ではないと思うのです。

それができたのは、漱石が漢学の素養を持っていただけでなく、西洋(英文学)と東洋(漢学)の理想を相対化するような視野を持ち続けたからだと言っていいと思います。

参照:陶淵明「帰園田居」
参照:正岡子規『墨汁一滴』(青空文庫)
参照:夏目漱石『草枕』(青空文庫)
参照:正岡子規『病牀六尺』(青空文庫)‪
参照:夏目漱石『子規の画』(青空文庫)
*漱石は、子規の絵はがきを形見にしており、そこに描かれた一輪の東菊に「拙」をみとめています。

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