漱石の一句(3)木瓜咲くや漱石拙を守るべく

漱石の俳句でもっとも有名なのは、この句ではないでしょうか。

木瓜咲くや漱石拙を守るべく

明治30年熊本時代の作品です。この句については、さまざまなところで解説がされているので、あえて言うまでもありませんが、ベースになっているのは陶淵明の詩「帰園田居」です。そこに出てくる「守拙帰園田」(拙を守って園田に帰る)から来ています。

陶淵明と異なるのは、漱石の故郷は田園ではなく、東京という都市だったということでしょう。子規は『墨汁一滴』でこう書いています。

《漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。》(正岡子規『墨汁一滴』)

つまり、漱石はそもそも稲の苗を見て「これは何の草だろう」という人なのです。そういう人間が、東京の高等師範学校の教師を辞職し、松山に一年、そして熊本へ赴任した自分に「拙を守るべく」と言い聞かせている。この二重性に、漱石独自なユーモアが隠れているのだろうと思います。

この句の鑑賞はたいてい『草枕』にある次の一説が引き合いに出されます。知らない人もいると思うので、引用します。

《木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直かと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔らかい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守ると云う人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。》(夏目漱石『草枕』)

そして、漱石は木瓜の花のように頑固で不器用な自分を自覚している人間であり、むしろそれを誇りとして、愚直に生きた人なのだと言うわけです。確かに、そういう一面がないわけではないでしょう。しかし「守拙=木瓜」とはあくまで漱石の理想であって、そううまくいかない現実もあるという含みがあります。その証拠に、自分で自分に言い聞かせるように「漱石」という名を句に入れています。

むしろ、私が気になるのは、『詩経』で「詩は志なり」と言われるように、漱石が理想を句に詠む人だということです。しかも、その理想は「木瓜の花」です。

漱石の年齢は明治の年号と一致するのでわかりやすいですが、明治10年代に自由民権運動、明治20年代に逍遥と鴎外による没理想論争、そして27年に日清戦争がありました。木瓜の句は、明治30年という理想を語ることの難しさに直面した時期に詠まれているわけです。子規も晩年、理想を詠むことについてこういっています。

《理想の作が必ず悪いといふわけではないが、普通に理想として顕れる作には、悪いのが多いといふのが事実である。理想といふ事は人間の考を表はすのであるから、その人間が非常な奇才でない以上は、到底類似と陳腐を免れぬやうになるのは必然である。固もとより子供に見せる時、無学なる人に見せる時、初心なる人に見せる時などには、理想といふ事がその人を感ぜしめる事がない事はないが、ほぼ学問あり見識ある以上の人に見せる時には非常なる偉人の変つた理想でなければ、到底その人を満足せしめる事は出来ないであらう。》(正岡子規『病牀六尺』)

漱石はなかなか難しいことをやっているわけです。少なくとも漱石は「非常なる偉人の変つた理想」を詠み、そして成功した希有な例ということができます。それができたのは、漱石が漢学の素養を持っていただけでなく、西洋(英文学)と東洋(漢学)の理想を相対化するような個であり続けたからだと思わざるを得ません。

参照:陶淵明「帰園田居」
参照:正岡子規『墨汁一滴』(青空文庫)
参照:夏目漱石『草枕』(青空文庫)
参照:正岡子規『病牀六尺』(青空文庫)‪
参照:夏目漱石『子規の画』(青空文庫)
*漱石は、子規の絵はがきを形見にしており、そこに描かれた一輪の東菊に「拙」をみとめています。

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