漱石の俳句(5)安々と海鼠の如き子を生めり

明治二九年、漱石は結婚します。その年、妻・鏡子は流産。ノイローゼ(ヒステリー症)から投身自殺の未遂をおこします。漱石は当時、鏡子と手首を糸で結んで寝たこともあったそうで、小説『道草』にもそのときの描写があります。

《或時の彼は毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寐ねた。紐の長さを四尺ほどにして、寐返えりが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。》(『道草』)

こうした夫婦間の苦難をのりこえて、明治三二年、長女・筆子が誕生します。そのときの句がこれです。

安々と海鼠の如き子を生めり

グロテスクにしてユーモラスな句です。いわゆる大正以降のホトトギス俳句とはまったく相容れないものがあります。虚子が花鳥諷詠と客観写生を掲げる以前だからという理由だけで、こんな句ができるはずはありません。

この句には笑いがあります。川柳狂歌といった江戸諧謔文学の笑いのようであり、それだけではないものがあります。いったいこの笑いはどこから来るのでしょうか。

大正五年、漱石最晩年の、芥川龍之介と久米正雄に宛てた手紙にもこうあります。

《僕は俳句といふものに熱心が足りないので時々義務的に作ると、十八世紀以上には出られません。時々午後に七律を一首づつ作ります。自分では中々面白い、さうして随分得意です。出来た時は嬉しいです。》(『漱石書簡集』岩波文庫)

晩年の漱石は、俳句よりも漢詩のほうに熱心でしたが、俳句について「十八世紀以上には出られません」という言葉は謙遜のようであって、それだけではないものがあります。漱石の小説もまたそうだからです。

たしかに漱石の文学には十七・十八世紀的な文学の影響があります。江戸文学だけでなく、英文学の影響もあります。例えば、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』を日本に初めて紹介したのは(明治三〇年)漱石ですが、『吾輩は猫である』はこの小説の影響が見られます。スターンの小説には、スウィフト、カーライル、さらにラブレー、セルバンテスといった中世・ルネサンスの諧謔文学の影響があるといわれています。

考えてみると「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」という俳句も、陶淵明の漢詩の「パロディ」とも言えます。パロディも十八世紀以前に多く用いられた文学の手法です。とはいえ、この海鼠の句にある笑いは、パロディ的な笑いでもありません。

この笑いはいったい何なのか。

それは『道草』のこの一説を読んでみるとわかってきます。産婆が遅れたため、「もう生れます」という細君の出産に立ち会うことになった健三の様子です。

《彼は狼狽した。けれども洋燈を移して其所を輝らすのは、男子の見るべからざるものを強いて見るような心持がして気が引けた。彼はやむをえず暗中に摸索した。彼の右手は忽ち一種異様の触覚をもって、今まで経験した事のない或物に触れた。その或物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪廓からいっても恰好の判然しない何かの塊に過ぎなかった。彼は気味の悪い感じを彼の全身に伝えるこの塊を軽く指頭で撫でて見た。塊りは動きもしなければ泣きもしなかった。ただ撫でるたんびにぷりぷりした寒天のようなものが剥げ落ちるように思えた。もし強く抑えたり持ったりすれば、全体がきっと崩れてしまうに違ないと彼は考えた。彼は恐ろしくなって急に手を引込めた。》(『道草』)

この句の奥に隠れているのは、このような得体の知れないものに触知する恐怖です。この恐怖を「海鼠」という物と引き換えにすることで笑いが生じるのです。恐怖からの解放、安堵からくる笑いなのです。

さらに重要なのは、その安堵をもたらしてくれているのが、妻の鏡子だということです。つまり、上五の「安々と」は、妻という他者へ投げられた称賛の句であり、感謝の表現だと思うのです。

参照:夏目漱石『道草』(青空文庫)

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