漱石の一句(4)安々と海鼠の如き子を生めり

明治29年、漱石は結婚します。その年、妻・鏡子は流産。ノイローゼ(ヒステリー症)から投身自殺の未遂をおこします。漱石は当時、鏡子と手首を糸で結んで寝たこともあったそうで、小説『道草』にもそのときの描写があります。

《或時の彼は毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寐ねた。紐の長さを四尺ほどにして、寐返えりが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。》(夏目漱石『道草』)

こうした夫婦間の苦難をのりこえて、明治32年、長女・筆子が誕生します。そのときの句がこれです。

安々と海鼠の如き子を生めり

グロテスクにしてユーモラスな句です。いわゆる大正以降のホトトギス俳句とはまったく相容れないものがあります。虚子が花鳥諷詠と客観写生を掲げる以前だからという理由だけで、こんな句ができるはずはありません。もちろん江戸の俳諧ともまったく異なります。異端の風貌さえある句です。

詳しいことは調べないとわかりませんが、おそらくこの句は十七・十八世紀的な文学の影響があるのではないかと思います。ローレンス・スターン(1713年~1768年)の『トリストラム・シャンディ』を日本に初めて紹介したのは、漱石です(明治30年)。スターンの小説には、スウィフト、カーライル、さらにラブレー、セルバンテスといった中世・ルネサンスの諧謔文学の影響があると言われます。

ちなみに、大正5年、漱石最晩年の、芥川龍之介へと久米正雄に宛てた手紙にもこうあります。

《僕は俳句といふものに熱心が足りないので時々義務的に作ると、十八世紀以上には出られません。時々午後に七律を一首づつ作ります。自分では中々面白い、さうして随分得意です。出来た時は嬉しいです。》

晩年の漱石は、俳句よりも漢詩のほうに熱心でしたが、俳句について「十八世紀以上には出られません」という言葉は謙遜のようであって、それだけではないものがあります。漱石の小説もまたそうだからです。考えてみると、前回の「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」という俳句も、陶淵明の漢詩の「パロディ」とも言えます。パロディも十八世紀以前に多く用いられた文学の手法です。

とはいえ、この海鼠の句には、バフチンが「カーニバル」や「グロテスク・リアリズム」と呼ぶような十八世紀的な笑いとは異なる、小さな笑いがあります。この笑いは何処から来るのか。それは『道草』のこの一説を読んでみるとわかってきます。産婆が遅れたため、「もう生れます」という細君の出産に立ち会うことになった健三の様子です。

《彼は狼狽した。けれども洋燈を移して其所を輝らすのは、男子の見るべからざるものを強いて見るような心持がして気が引けた。彼はやむをえず暗中に摸索した。彼の右手は忽ち一種異様の触覚をもって、今まで経験した事のない或物に触れた。その或物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪廓からいっても恰好の判然しない何かの塊に過ぎなかった。彼は気味の悪い感じを彼の全身に伝えるこの塊を軽く指頭で撫なでて見た。塊りは動きもしなければ泣きもしなかった。ただ撫でるたんびにぷりぷりした寒天のようなものが剥げ落ちるように思えた。もし強く抑えたり持ったりすれば、全体がきっと崩れてしまうに違ないと彼は考えた。彼は恐ろしくなって急に手を引込めた。》(夏目漱石『道草』)

この句の奥に隠れているのは、このような得体の知れないものに触知する恐怖です。この恐怖を「海鼠」という物と引き換えにすることで笑いが生じるのです。つまり、恐怖からの解放、安堵が生まれる。そして、それがあるからこそ、妻への感謝の句にもなるというわけです。

こうした句づくりは、いわゆるホトトギス俳句とも、前衛俳句とも異なるところだろうと思います。

参照:夏目漱石『道草』(青空文庫)

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