漱石の俳句(4)有る程の菊投げ入れよ棺の中

漱石は手紙魔としてもよく知られています。『行人』や『こころ』のように手紙形式の小説もあるくらいです。漱石の句集をみると、手紙に書き添えた俳句が多いことに気づきます。様々な人に書き贈った俳句が収録されているのです。習作として詠んだ句を除くと、残りはほぼ「他者」に向かって投げかけられた句であったと言ってもいいかもしれません。

そもそも漱石の最初の俳句は、明治二二年、喀血した子規に書いた手紙に添えられたものでした。

 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥  (明治二二年)

 聞かふとて誰も待たぬに時鳥 (同)

その手紙に《小にしては御母堂の為大にしては国家の為自愛せられん事こそ望ましく存候》とあるように、漱石は子規を俳句でいたわったのです。

子規が東京帝国大学を退学する時もそうです。漱石は《小子の考へにてはつまらなくても何でも卒業するが上分別と存候。願くば今一思案あらまほしう》と手紙に書き、子規の退学を引きとめます。

 鳴くならば満月に鳴けほとゝぎす (明治二五年)

しかし、子規は退学し、俳句革新の道を志しました。漱石が子規に句稿を書き送りはじめたのはそのあとです。そう考えると、子規に書き送った句稿そのものが、子規への励ましのメッセージだったのではないかとも思えてきます。

つまり、漱石の俳句は初めから、自己完結した「表現」ではなかったと思います。それは最後の最後まで、他者に向けて投げかけられたものでした。前述したように「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」のような句ですら、自己という他者に向かって投げかけられているように読めます。

日本の詩歌の起源には「問答」があると言われます。それは古事記にも見られます。万葉集には贈答歌が多く収録されています。男女の恋に関わる「相聞歌」や人の死に関わる「挽歌」がそうです。

漱石には、相聞歌にも挽歌にも該当する有名な俳句があります。

 今日よりは誰に見立ん秋の月   (明治二四年)

この句は明治二四年、漱石が密かに心を寄せていたとされる兄嫁・登世が二五歳の若さで亡くなったときに詠まれた句の一つです。江藤淳が『漱石とその時代』で、漱石の兄嫁への恋心を論証する際にも引き合いに出されています。

 有る程の菊投げ入れよ棺の中   (明治四三年)

この句は時代が後年になりますが、「床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る」と前書きがあります。大塚楠緒子は東京控訴院長・大塚正男の長女で、漱石は学生時代、大塚家の婿養子になる可能性もあったその相手です。漱石は「それから」の代助のように、若き日の義侠心から好きな人を友人に譲り、あとも恋心を抱き続けていたという噂話も有名です。しかし、漱石の恋心が果たしてどこまでのものであったか。それは、この句を投げかけられた方が想像するほかありません。

これらの句に「笑へ」「鳴け」「投げ入れよ」といった命令形が多用されているように、漱石の句には「勢い」や「調子」のある句が多いことに気づきます。これらには、和歌や歌謡のような抑揚、あるいは口上芸のようなリズムを感じられます。少なくとも、いわゆる「客観写生」といわれる句とは異なり、「主観的」であり、メッセージそのものです。

俳句は「作為」を消すことが大事とされますが、それは相手に伝えたいメッセージを消すことではありません。その句を受け取った側がどう読むかは、あくまで受け手の自由にゆだねられていることが重要です。作り手が受け手の自由を奪ってしまうこと、それが「作為」ということではないかと思います。そう考えると、漱石の句に「作為」はなく、むしろ無為な句に思えてきます。

これは漱石が理想とした「拙であること」と矛盾しないし、むしろ愚直に実践している姿が見えてきます。

夏目漱石『文鳥』
*ここで「昔し美しい女を知つて居た」と書かれる女性が、大塚楠緒子のことではないかという節もあります。

夏目漱石『硝子戸の中』
*「二十五」に大塚楠緒子について回想が書かれています。

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