漱石の一句(9)菫程な小さき人に生れたし

2014年、漱石から子規へ送った手紙があらたに発見されたというニュースがありました。手紙の日付は明治30年8月23日。さらに、その中に未発表の俳句が二句ありました。

 禅寺や只秋立つと聞くからに
 京に二日また鎌倉の秋を憶ふ

二句目は鎌倉で療養中だった妻への思いを詠んだ句です。この年の6月、漱石は実父が亡くなったため、鏡子と東京に戻ります。その長旅のせいで鏡子は流産します。鏡子はそのため鎌倉で療養しました。「また」というのは、漱石自身がその3年前である明治27年、神経衰弱に苦しむ自身の療養のため鎌倉円覚寺に参禅しているからです。

明治27年というと、5月に北村透谷が自殺し、8月に子規も従軍した日清戦争が起った年です。西暦にすると1894年。この世紀末から新世紀に変わる数年間、漱石の人生はたいへんなスピードで動きます。句の背後を知る意味でも、子規との関係と一緒に少し年譜をたどってみます。

明治27年(1894年)
 12月、鎌倉円覚寺に参禅。

明治28年(1895年)
 1月、根津の子規庵で句会に参加。
 4月、東京を去り、松山へ赴任。
 同月、子規の従弟で、漱石の教え子でもある藤野古白が自殺。
 5月、神戸で子規が喀血し倒れる。
 8月、療養のため子規が松山にもどり、漱石の下宿先(愚陀仏庵)に移り住む。
 10月、子規が東京に戻る。
 同月、子規へ句稿を送る(5句)
 同月、子規へ句稿を送る(46句)
 同月、子規へ句稿を送る(42句)
 11月、子規へ句稿を送る(50句)
 同月、子規へ句稿を送る(18句)
 同月、子規へ句稿を送る(47句)
 同月、子規へ句稿を送る(69句)
 12月、東京に戻り鏡子と見合い、婚約。
 同月、子規へ句稿を送る(41句)
 同月、子規へ句稿を送る(61句)

明治29年(1896年)
1月、子規へ句稿を送る(40句)
同月、子規へ句稿を送る(20句)
3月、子規へ句稿を送る(101句)
同月?、子規へ句稿を送る(27句)
同月、子規へ句稿を送る(40句)
4月、熊本に赴任。
6月、鏡子と結婚、式を挙げる。
7月、子規へ句稿を送る(40句)
8月、子規へ句稿を送る(30句)
9月、子規へ句稿を送る(40句)
10月、子規へ句稿を送る(16句)
同月、子規へ句稿を送る(15句)
11月、子規へ句稿を送る(28句)
12月、子規へ句稿を送る(62句)

明治30年(1897年)
 1月、柳原極堂が松山で「ほとヽぎす」を創刊。
 同月、子規へ句稿を送る(22句)
 2月、子規へ句稿を送る(40句)
 4月、子規へ句稿を送る(51句)
 同月、子規『俳人蕪村』を発表。
 5月、子規『古白遺稿』を刊行。
 同月、子規へ句稿を送る(61句)
 6月、実父(直克)逝去。鏡子流産。
 8月、鏡子が療養する鎌倉別荘へ行く。
 10月、子規へ句稿を送る(39句)
 12月、子規へ句稿を送る(20句)
 同月、正月まで小天温泉へ旅する。『草枕』の題材となる。

明治31年(1898年)
 1月、子規へ句稿を送る(30句)
 2月、子規『歌よみに与ふる書』を発表。
 5月、子規へ句稿を送る(20句)
 9月、子規へ句稿を送る(20句)
 10月、子規へ句稿を送る(20句)
 同月、熊本で漱石を主宰とした俳句結社「紫溟吟社」が興る。

明治32年(1899年)
 1月、子規へ句稿を送る(75句)
 1月、子規『俳諧大要』を発表。
 2月、子規へ句稿を送る(105句)
 5月、長女(筆子)誕生。
 9月、子規へ句稿を送る(51句)
 同月、阿蘇登山。
 10月、子規へ句稿を送る(29句)

明治33年(1900年)
 1月、子規「叙事文」にて、写生文を提唱。
 7月、英国留学の準備のため帰京。
 8月、子規を訪問する。
 9月、子規「山会」を開催。
 同月、英国へ出発。

愚陀仏庵を子規が去ってから、漱石はまるで俳句によって病を癒すかのような勢いで大量の句を作っては、子規へ送り続けています。むしろ、俳句という病にかかったかのようでもあります。ところが、明治32年、長女・筆子の誕生以降、句作の量が激減し、子規への句稿もその年末でストップします。翌年は年間19句しか遺していません。子どもの誕生が漱石の病を軽減したのか、まるで俳句を作りながら新しい命を求めていたかのようにすら思えます。

ところで明治30年の2月、子規へ送った句稿の中に不思議な句があります。

 菫程な小さき人に生れたし

菫のような可愛さにあこがれる女性の句と思う人もいるようですが、まぎれもなく、夏目漱石の句です。

この句は有名な句なので、今更付け足すまでもなく、すでに解釈がなされています。やはり、熊本時代の句であるだけに、熊本を舞台にした小説『草枕』(明治39年)の世界とつなげて、面倒な人の世を離れて、ひっそりと菫のように生きたいという気持ちと解されることが多いと思います。

また「菫程な小さき人」という表現は、明治41年の作品『文鳥』に再び現れます。『文鳥』は小説とも随筆とも日記とも言えないような小品(写生文)です。漱石は、教え子の鈴木三重吉のすすめで、文鳥を飼います。その文鳥が、このように書かれています。

《文鳥はつと嘴を餌壺の真中に落した。そうして二三度左右に振った。奇麗に平して入れてあった粟がはらはらと籠の底に零れた。文鳥は嘴を上げた。咽喉の所で微な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速やかである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつづけ様に敲いているような気がする。》(明治41年『文鳥』)

ここからこの一説をもとに菫の句を解釈されることもあります。例えば、詩人の清水哲男はこう評しています。《人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんな風な人が、漱石の理想とした「菫程な小さき人」であったのだろう》。たしかに「累々と徳孤ならずの蜜柑かな」(明治29年)の蜜柑しかり、「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」(明治30年)の木瓜の花しかり、この句は菫に自己の理想を詠んでいることは、疑いようがありません。

いずれにても、先ほどの『草枕』の隠遁詩人の世界からつながる解釈です。ただ、先ほどの年譜を見ると、この句を詠んだとき、漱石は結婚したばかりであることがわかります。このときの漱石の心を思うと、下五の「生れたし」は自分自身のことでもあると同時に、これから生まれてくるであろう誰か、つまり、未来の子どもに向かって自身の理想を投げかけているようにも聞こえてきます。

なぜなら「生れたし」と言って、生まれたいと思っているのは作者ですが、作者は既に生まれてしまっているわけです。もし、生まれるのが自分ではない他者である場合、この「生れたし」は「生まれてほしい」という意味にもなります。もちろん、もし生まれ変われるなら、という隠れた気持ちを読みとれば作者自身のことになるわけですが。五七五だけなら、どちらの読みも可能です。

もし明治30年に妻・鏡子が流産せずに子どもが生まれていたら、この菫の句は子ども向かって詠んだ句として解釈されていたかもしれません。

参考:明治30年の子規の句に「送漱石」と前書きのある「萩芒来年逢んさりながら」という句があります。萩が咲き芒が咲く来年の秋にまた会おう。自分は病床におり、どうなるかわからないがという気持を込めた「さりながら」です。

参照:夏目漱石『草枕』(青空文庫)
*漱石は『草枕』の中で菫について、こんな風に書いています。
《日本の菫は眠っている感じである。「天来の奇想のように」と形容した西人の句はとうていあてはまるまい。こう思う途端とたんに余の足はとまった。足がとまれば、厭になるまでそこにいる。いられるのは、幸福な人である。東京でそんな事をすれば、すぐ電車に引き殺される。電車が殺さなければ巡査が追い立てる。都会は太平の民を乞食と間違えて、掏摸(すり)の親分たる探偵に高い月俸を払う所である。
余は草を茵(しとね)に太平の尻をそろりと卸した。ここならば、五六日こうしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す気遣はない。自然のありがたいところはここにある。いざとなると容赦も未練もない代りには、人に因って取り扱をかえるような軽薄な態度はすこしも見せない。岩崎や三井を眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として古今帝王の権威を風馬牛し得るものは自然のみであろう。自然の徳は高く塵界を超越して、対絶の平等観を無辺際に樹立している。天下の羣小(ぐんしょう)を麾(さしまね)いで、いたずらにタイモンの憤を招くよりは、蘭を九畹(えん)に滋(ま)き、蕙(けい)を百畦に樹えて、独りその裏に起臥する方が遥かに得策である。余は公平と云い無私と云う。さほど大事なものならば、日に千人の小賊を戮(りく)して、満圃の草花を彼らの屍に培養うがよかろう。
何だか考が理に落ちていっこうつまらなくなった。》(『草枕』)

参照:夏目漱石『文鳥』(青空文庫)

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