月について

ぽつねんと夜空に浮かぶ月をしばらく見ていると、不思議な気持ちになることがあります。それは、月が不思議なものに見えるということではありません。あの月が存在するように、この地球が存在し、そしてこの私も存在している。そのこと自体の不思議さに気づかされるのです。

人類は月面に六度降り立ちました。半世紀前のアポロ計画です。しばらく月から遠ざかっていた人類は、今世紀になって再び積極的に月面へ向かいつつあります。月の資源開発が理由です。月を新たなフロンティアとして、世界中で開発競争が始まっているのです。

資源開発だけではありません。月に氷が存在すれば、水を生成し、そこから酸素と水素が作れます。月面基地で酸素と水素を補給できるとなれば、月と地球の往復、さらに火星へ行く拠点にもなる。そんな簡単ではないはずですが、新たなビジネスの投資先として月が注目されているわけです。

とりわけ、中国は意欲的です。月面基地の建設計画もあります。二〇一三年、中国は月面に無人探査機を着陸させました。四〇年ぶりに月面の鮮明な画像を送信するも、制御不能となり、稼動も停止してしまいました。二〇一七年には新型ロケットの打ち上げ実験を失敗。中国はこのあとの計画延期を余儀なくされました。

民間では、二〇〇七年にグーグル社の支援する団体が、総額三千万ドル(三〇億円)もの賞金を懸けた月面無人探査コンテストをスタートしました。世界中で複数のプロジェクトが開発を競い合いましたが、二〇一七年、時間切れで終了となってしまいました(日本の民間団体も参加していました)。人類にとって月はまだ少し遠い存在なのかもしれません。

とはいえ、遅かれ早かれ、月は人類によって開発されて、領土化されてしまう時が来るのでしょう。世界地図の延長に月面が組み込まれ、SFのような風景にも見慣れてしまうのかもしれません。そのとき、月はどのように見えるのでしょうか。月と我々の関係は変わってしまうのでしょうか。

古代に遡ると、月は信仰の対象とされていたと言われます。若水などにみられる不死信仰です。また、日本最古の文芸といえる、竹取物語も月信仰なくしては成立しなかったでしょう。記紀のツクヨミはあまり表立った神ではないですが、風土記にも万葉集にも月神は出てきます。

現代において、月はもはや信仰の対象ではなく、崇高な対象というべきものかもしれません。しかし、最初に述べた不思議さは、月の開発がどこまで進んだとしても、失われないように思うのです。

思い出すのは、ヴィトゲンシュタインの言葉です。《神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるという、そのことである》。つまり、神秘的なものが存在するのではなく、この世界が存在すること自体が神秘だということです。

俳句は、まさにこの世界が存在すること自体の神秘、不思議さが根底にあるのではないでしょうか。もちろん、月の句に限られたことではありません。小さな生き物の世界をながめているときも、同じような不思議さを感じることがあります。つまり、森羅万象あらゆる存在に本来この不思議さが宿っているはずなのです。

ただ、我々は日常的にあらゆるものをいちいち不思議がってはいられません。その存在は自明のこととしておかないと、日常生活は送れません。この自明性を支えているものは何かというと、言葉です。人間は言葉によって自然を分節化し、均質化し、世界全体を主体的に構成します。

しかし、大地震のような自然災害が起きたり、また親しい人が突然なくなったりすると、我々は言葉を失います。自明と思っていた世界が崩れ、沈黙におそわれます。しかし、次第に人はその言葉にならないものさえも言葉に託し出します。物語、歌、そして詩もそういう言葉でしょう。そして、また言葉は徐々に修復されていき、再び自明性を取り戻すと、我々はいつの間にか沈黙を忘れてしまうのです。

《語りえぬものについては、沈黙せねばならない》。これもまたヴィトゲンシュタインの言葉です。言葉の外側に潜む大いなる沈黙。この沈黙を前にするとき、我々人間が現実と呼んでいる社会や生活のほうが、むしろ虚構の出来事のように思えてきます。現実と思っていたものは「胡蝶の夢」にほかならないのではないかと疑わしくなります。

俳句が批評となりうるのは、この沈黙を垣間見せるときなのかもしれません。

塵埃の塊にして月光る  千方

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