句集『鶯』をよむ

句集『鶯』は、長谷川櫂の第十句集にあたる。あとがきの日付をみると、二〇一一年の立春とある。句集の刊行は、五‪月三〇日である。その間に三・一一、東日本大震災が起こっている。おそらく、四月に刊行となった『震災歌集』の制作のため、刊行が延びたのではないかと思われる。‬‬

当時の状況はあまり思い出したくないが、燃料溶融で穴が開いた原子炉圧力容器に、連日ポンプ車で注水を行なっているような時期である。まともな冷却システムが稼働できていないのは、私の心も同様だったはずである。

 天体も生命もまた春の塵

例えば、この句は震災直後の雰囲気で読んだときは、どこか現実に対する皮肉のように感じていた。しかし、今読むと全く違う印象がする。天体も生命も「春の塵」という終わりにいきつくほかないのだが、同時にすべてが「春の塵」から始まっているということでもある。つまり、宇宙の塵ではなく「春の塵」なのである。

 朧より生まれ朧に帰りけり

この句の「朧」も同じである。この「朧」は、前の句の「春の塵」という始まりであり且つ終わりであるようなものを、内側から詠んでいるように思える。われわれは自身が生まれる前のことを覚えているわけではない。思い出そうとすれば、ぼんやりするほかない。死んだ後のこともそうである。たしかに内側から見れば、すべてが朧の中のこと。

「春の塵」も「朧」も春の季語である。しかし、この終わりであり、始まりであるような何かは、春の句だけに見られるものではない。たとえば、次の句の「雑炊」もそうである。

 喜びも悲しみもみな雑炊に

どんなに嬉しくてもずっと喜んでばかりはいられないように、悲しくてもずっと悲しんではいられない。それらはみな、雑炊にして食べてしまおうというのだ。なぜなら、新たな一歩を踏み出すために。つまり、また一つ何かを始めるためにすべてを終わらせるということだ。清々した気分さへ感じられる。言い換えると、これは節目をつけるということである。たしかに、あとがきにも次のような一文がある。《もし十が一つの節目であるとするなら、『鶯』は節目となる句集である》。
帯にある次の秋の句はどうだろうか。

 爽やかに俳諧に門なかりけり

たとえば、仏門という言葉あるが、俳諧にはそういった「門」がない。この句は、それを爽快に詠んでいる。「門」とは入口であり出口である。門がないとは、始まりも終わりもないということにもなるが、そこに気づく時が実は終わりであり、また始まりなのではないか。そう思うと、句集のタイトルである鶯と呼応するのがわかる。鶯が春を告げる鳥であるように、この句集『鶯』は、いわば、一つの始まりであり且つ終わりであるような「春」をめぐる句集なのではないだろうか。

収められた句は二〇〇八年から二〇一〇年の句が中心であり、全九章立てに四季を三回めぐる構成となっているが、全体を通して、一つの「春」を感じさせる。その「春」とは、言い換えると、再生の時ということになるかもしれない。

 鶯の巣をかたはらに冬ごもり
 逆鱗をときに鳴らして冬ごもり
 すこやかな一句生まれよ寒卵
 人類に夢みるちから寝正月
 戦場や毛布のなかに赤ん坊

これらの句は、新たな始まりを待っている。

 墨汁の一滴の春来たりけり
 音立ててものの芽の今ほぐれたり
 一枚の田を響かせて初蛙

新たな始まりを告げる音が聞こえて来るようである。夢から覚めたことを告げるような音である。その音を発するものは、まだ小さきものである。

 悴みてかくも小さく心かな

どんなに大きなものでさえ、寒い冬には心まで小さくなる。しかし、それもまた大きくなるための小ささであれば、この小ささは肯定すべきものである。いわば、また新たなるものへ生まれ変わることの肯定となる。

 刻まれて星屑となるおくらかな
 柚子湯して柚子となりたる女かな

「ある」ではなく「なる」ことを言祝いでいる句である。「なる」ということは生成変化であるが、そもそもそこに内在している本質が現出するということでもある。これも一つの再生のかたちである。

 皮を脱ぐ竹のごとくに人新た

この句ははっきりと人の「再生」がテーマになっている。

 大いなる詩の心あれ草の餅

この句は再生とは言っていないが、「草の餅」という季語から新たなものを呼び起こさんとする勢いを感じる。まるで、自己のみならず、心あるものすべてに向けて、投げかけられているかのようである。この句は、作者にとっての自己のみならず、この世界の再生のための供物のようにさへ思えてくる。この再生への願いは、次のような贈答句にもあらわれている。

 打つて出る心大事や柏餅
 秋立つとともに君にも新天地
 鹿の子と思つてゐしが麒麟の子
 菊の酒六十歳の少年よ

どれも新たな一歩を踏み出さんとするものへのエールであろう。

 一歳の兜太誕生梅真白

こんな句もある。当時まだ兜太さんはもちろん存命であり、「死ぬ気がしない」とまでおっしゃられていたくらい元気であった。だから再生ということにはならない。兜太の名を授かった、新しい命を祝う一句である。

 亡き猫に瓜二つなる子猫かな

これも一つの変わった再生の句と言っていいかもしれない。不可能なものの反復であるが。ところで、先に春を待つ句をいくつかとりあげたが、次の句も忘れてはならない。

 春を待つ心句集を待つ心

前書きに《句集『夏』『秋』『冬』次は》とある。二〇〇九年に亡くなった川崎展宏さんの遺句集は、その名も『春』という題の全句集であった(刊行は二〇一二年一〇月、この全句集の解説を書いているのが、この句の作者である)。人の死は、たしかに一つの終わりである。しかし、その死を受け止めた人々の中で再び生き始める。
さらにこの句集には、次のような社会や世相を詠んだ句も多く見られる。

 鬼とても子は殺さぬに鬼やらひ
 節分や鬼のかぶれる人の面
 蟻地獄人の地獄のかたはらに
 戦争がどかと残暑のごとくなほ

このような句は『震災句集』『柏餅』『沖縄』といった、このあとの句集においても、さかんに詠まれていくようになる。そう考えると、この句集『鶯』そのものが、新たな始まりとなったようにも思えてくる。

最後に次の句をとりあげたい。この句も刊行当時とは違う印象を持った句である。

 天地の破れ破れて風薫る

天と地が一体であったとしたら、おそらく始まりも終わりもないどころか、時間も空間もなかったかもしれない。それは神話的な思考によってしか、とらえがたいことかもしれないが、どこかに破れ目が生じたために、この世界が出現したかのような感じがする句である。そう思うとこの「破れ破れて」は、再生を繰り返してというふうにもとれる。いわば、この世界の代謝運動である。われわれはその破れ目を吹き抜ける風のようなものなのかもしれない。


 
句集『鶯』
著者:長谷川櫂
定価:2,857円税別
発行:角川学芸出版
発行日:2011年5月26日
 

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