雪国の向こうに

日本は雪の降る国です。海外からすると、雪は日本観光の対象でもあります。沖縄や八重山にも降雪記録がありますが、雪を観に訪れるなら「雪国」でしょう。

雪国という言葉は、東北や北陸の冬の山国をイメージさせます。この言葉は比較的新しく、一般的になるのは柳田國男が東北を歩いて記した「雪国の春」(昭和三年)からだそうです。さらに、川端康成の代表作『雪国』(昭和十二年)が発表され、そのイメージは強固になります。とりわけ、冒頭の〈国境の長いトンネルを抜けると雪国であった〉という一文はあまりにも有名です。

では、その雪国を抜けると何があるのでしょうか。

まず思いつくのは北海道です。北海道も雪国ですが、北国という言葉の方が合います。さらに北上すると千島(クリル列島)、そして樺太(サハリン)があります。そこはもう雪国という言葉を逸脱した感じがあります。

帝国主義時代、日本は北方へ南方へ領土を広げましたが、それは俳句も同じでした。虚子は、そもそも歳時記はあくまでも本州の気候に即してあるべきとし、日本よりも暑いところでは、夏の季語を応用して詠むべしという考えでしたが、昭和十一年「熱帯季語小論」で三十五の熱帯季語を歳時記に収録します。しかし、戦後それらをそっくり削除します。これだけで一冊本になるような問題なので、ここでは触れませんが、日本を離れ俳句を詠むとき「季語の重力圏」とでもいうべきものを感じる人も多いのではないでしょうか。

虚子の死後、沖縄や八重山のさらに南に位置する台湾で俳句が詠まれ始めます(台北俳句会)。詠み手は戦前に日本語教育を受けた台湾の人々です。それらは台北俳句会の創立者である黄霊芝という文学者の手によって『台湾俳句歳時記』(二〇〇三年刊行)にまとめられました。しかも、その季語は日本の歳時記とは異なる、台湾の風土や文化に即した日本語によって編まれています。

では、北方はどうだったか。北方の台湾に当たるのは、樺太(サハリン)です。台湾同様、日本統治下に開発された島であり、第二次大戦後、日本領ではなくなったところです。もちろん、樺太がソ連領となったあと、そこに台湾俳句会のようなものは当然起こりませんでした。しかし、樺太を開拓した人々のあいだでは俳句が詠まれていました。

例えば、山口誓子は十代の頃、樺太に暮らしており、句集『凍港』の冒頭には樺太時代の句が並んでいます。そこに氷海、熊祭、鰊群来といった珍しい季語も見られます。

樺太俳句の立役者は、大正十三年に俳誌「氷下魚(かんかい)」を興した、伊藤凍魚という俳人です。凍魚は飯田蛇笏の弟子で、氷下魚は雲母の地方誌的な存在でした。

終戦とともに樺太俳句は断絶しましたが、一九八四年刊行の『樺太歳時記』(菊地滴翠編)という本にまとまっています。この本は歳時記というよりも、開拓時代の樺太に暮らした人々による俳句と短歌のアンソロジーです。

樺太では五月初旬まで雪が降り、春夏秋は瞬く間に過ぎて、九月にはもう雪が降り始めます。これらを読むと、本土との差異と向き合っていた人々の声が聞こえてくる気がします。

  オホツクの汐鳴り高き初日かな   本橋碧天楼
  屠蘇酌むや氷の国に住みも慣れ   上田純煌
  氷海の風よくあたる注連飾     恩地樺雪
  如月の島に届きし賀状かな     渡辺魯帆
  鰊漬の凍りし樽を叩きけり     沢朔風
  あざらしの人に啼き寄り春の砂   伊藤雪女
  駒草に海山の霧ふれあへる     鈴鹿野風呂
  ツンドラの川みな赤き土用かな   岡部巴峡
  葉月雪忽然と来て燦爛たり     伊藤凍魚
  樺太を浄めの雪や神の旅      伊藤凍魚
  その日より千鳥も見えず海凍る   笹木亜寒
  雪負うてデツキを這へりタラバ蟹  石川松湖
  凍飯のほろほろとしてせんもなや  伊藤凍魚

おそらく、そこには本土の言葉をそのまま持ってきても通用しない自然があったはずです。人々の暮らしがその自然になじんでいくように、言葉もまた徐々に新しい重力圏を生成していく。樺太俳句はその過程にあったのかもしれません(もちろん自然だけでなく人間の問題、すなわち日本政府による同化政策の問題を別に考えなければなりませんが)。

最近知ったのですが、私の父方の祖父は、樺太の大泊という港町で宮司をしていました。終戦の年の八月二十二日、祖母と一歳の父は「三船殉難事件」で唯一帰還できた引揚船の一隻に乗っていました。当時三歳の伯父は船の煙突にしがみついていたそうです。

雪は降り積もりますが、解けるものです。解けるから雪であって、解けないものは氷です。俳句史において、樺太俳句は今なお解けない氷の崖のように思えます。

  凍りたる海のかけらの声を聞け   千方

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