照井翠句集『龍宮』

今年もまた三月十一日がやってきました。東北大震災から九年が経ち、あらためて照井翠さんの句集『龍宮』を読みなおしました。この句集は何百年先にも読み継がれるべき古典だと思いました。震災の記憶がまだ生々しかった当時は、一句一句の背後にあるリアルな感覚が、むしろ読みを過剰に邪魔をしてしまったところもあると思います。しかし、時が経ち、むしろしっかり読めるようになってきた感じがします。これからは、もうあの震災を経験していない若い世代が読み継いでいくはずです。

喪へばうしなふほどに降る雪よ

黒々と津波は翼広げけり

津波より生きて還るや黒き尿

泥の底繭のごとくに嬰と母

春の星こんなに人が死んだのか

喉奥の泥は乾かずランドセル

毛布被り孤島となりて泣きにけり

生きてゐる瓦礫の湿り春の月

逢へるなら魂にでもなりたしよ

蜉蝣の陽に透くままに交はりぬ

蟇千年待つよずつと待つ

鰯雲声にならざるこゑのあり

何もかも見てきて澄める秋刀魚かな

雪が降るここが何処かも分からずに

冬北斗死して一本松立てり

今生のことしのけふのこの芽吹

浜いまも二つの時間つばくらめ

虹の骨泥の底より拾ひけり

あとがきで、照井さんはこんな言葉を残しています。《このような極限状況の中で、私が辛うじて正気を保つことができたのは、多分俳句の「虚」のお陰でした》。この「虚」とは、芭蕉が《虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚に遊ぶはかたし》と云った、あの「虚」に他ならないと思います。

刊行当時、この句集に対して「リアルなものを物語化してしまった」という紋切り型の批判があったのを記憶しています。たしかに、そういう言い方は可能だと思います。しかし、この句集は「リアルなもの」に触れていると思います。「実」の底が抜けてしまい、「虚」に遊ぶことなどできない状態にあって、作者はむしろ「虚」の側に立つことで、リアルなものから辛うじて「実」を取り出したのだと思うのです。これは「虚に遊ぶこと」(物語化)とはまったく違うはずです。

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