坂本龍一インタビュー

いまから17年前、2006年にオランダのアムステルダムで、坂本龍一さんにお話しを聞くことがありました。すでに坂本さんは、音楽家と平行して、地球環境問題に関わる横断的なプロジェクトを行う活動家としての側面をお持ちでした。このころ、ブルース・マウというカナダのデザイナーによる「マッシブ・チェンジ」という提言が話題で、その話に絡んで、「デザイン」について話をお聞きしました。しかし、その話の内容は、いまにもつながる大きな話でした。雑誌はなくなりましたので、内容をここに残しておきます。


世界をどうデザインするかというとき、正解でなければもう生き残れない

——マッシブ・チェンジのどういうところに注目なさったのでしょうか?

坂本:今、人類が生き残れるかどうかの瀬戸際でしょう。このままだと2050年ぐらいで終りで、2020年ぐらいにどちらに進むのかということを示しておかないと、おそらく2050年までもたない。ブルース・マウは、そういう背景があって、世界をデザインすると言っていると思う。世界をどうデザインするかというとき、正解でなければもう生き残れない。そういう瀬戸際の視点が、この本の背景にはあると思う。僕はデザインのことは詳しく知らないのですが、デザインの側からそういうアプローチの例を見たことなかったので、これは重要だと思いました。

——世界でもそういう危機意識とデザインを結びつけて考えている人は、まだ少ないでしょうね。

坂本:うん例えば、環境運動の中には、もうすべてを救うのは無理なので、生物の多様性が高いスポットから順に20番ぐらい、プライオリティをつけて残そうという考え方もあります。これも大きな意味ではデザインですね。ブルース・マウがそこまでの意識があるかどうかは、本人に直接聞いたことがないから分からないですけど。

——『Massive Change』という本の中では、そもそも「デザイン」という言葉の意味が、変更されているように思うんです。20世紀後半、デザインというのは、一方的に大量生産、大量消費を促進する単語として使用されてきました。しかし、ウィリアム・モリスから、バウハウス、さらにバックミンスター・フラーぐらいまでデザインは、理念や想像力をもった社会変革を意味する言葉でもあったはずです。実際、メディアではブルース・マウが彼らと比べられることもあるようですが、マッシブ・チェンジにインパクトがあるのは、かつてモダニズムにあった倫理的な軸を回復するように見えたからではないでしょうか。

坂本:資本主義国の側では、たしかに商業主義に流れてバウハウスも単なる意匠として消費されたけど、旧東側の国には実はそういう流れは連綿と続いていました。バウハウスの様式ととても親和性のあるデザインが、建築も含めて、街の設計なんかもそうだけど、旧東側では社会主義的に育っていったし、まだそういうものは残っていますよ。

例えば、INSENで今回一緒にツアーしているアルヴァ・ノトは旧東ドイツの出身で、彼の故郷のケムニッツ(Chemnitz)という街に2005年の10月に行ってきました。そこは冷戦時代にはカール・マルクス・シュタット(Karl-Marx-Stadt)と呼ばれた工業の街で、映画の007シリーズ、たぶん『ロシアより愛を込めて』だと思うけど、その撮影に使われたくらい社会主義的な雰囲気の街なのです。その元にあるのは、明らかにバウハウスです。社会主義的な理想からくるものと、工業主義的というか、いかに少ない要素の組み合わせで多様なデザインをつくるかという、数学的な発想に基づいて発展してきている。ですから、われわれ西側の人間が、そういう理想を忘れていただけだと思いますよ。

——今、チェコやハンガリーなど、旧東欧のデザインからまた新しい消費の差異を探そうという動きもありますが。ファッションや商業主義に回収するだけに終わっちゃうのは、もったいないですね。

最も持続性をもつデザインは、生物です

坂本:もちろん社会主義国の問題というのもたくさんあって、実際もう壊れてしまったわけだけど、旧東欧のデザインの根底には、社会主義的な理念とか、理想主義的なものがあると思うのですよ。

——バウハウスは芸術と技術の統合を目指すものだと言う人がいますが、モホリ=ナギなどは特に、自然と人間との関係を、科学技術を受け入れつつ、どう調整していけるかというところを見ていたようです。小誌の一号でも伊藤俊治さんが書いてくれましたが、バウハウスには技術を生命化する方向性が根底にあったと。

坂本:先日、ソトコトで「ロハス」という考えを広めるために、「ロハスデザイン大賞」なんていうものをやったんです。ロハス(Lifestyles Of Health And Sustainability)っていうのは、「健康で持続可能な社会を目指す(多様な)ライフスタイル」ということですけど、最も持続性をもつデザインとは何かというと、生物ですね。地球上の生物に限らないけど、それ以外は知らないから。

地球上の生物は、大雑把に言って40億年以上生きてきているわけだけど、DNAだけで生きているわけでなくて、環境とのやりとりで、変化によって形を変えてきているわけでしょう。例えば、雌雄なんていうデザインもどこかでやったわけですよね。単性生殖の生物もいるけど、とにかく何億年前かに新しいデザインとしてなされたわけです。ずっと単細胞で同じ細胞を分裂させていく形でもよかったかもしれないのに、より持続性を高めようとDNAが努力して、こんな複雑で、大型の生物もデザインしてきた。だから、最もロハスなデザインは何かと言うと、生物。これが僕の考えです。だから、人間がつくるものもロハスなデザインであるためには、生物のクオリティにまで近づいたデザインでなければならないと思うのです。

——生物をデザインという視点から見るということは、日本ではあまりないかもしれませんね。

つくられたものを見れば、それをつくった人の知性が分かる

坂本:デザインというのは色とか形とか、単に意匠のことではないですね。よく言われるけど、神の手とか、神の設計とかね。新約聖書の聖パウロの手紙で、身の回りにあるあらゆるものを見れば、それらをつくった存在がどういう知性を持っているかということが分かるだろうって言っている。それに近いことをゲーテも言っているけど、ゲーテは植物を観察して、原植物というか、植物の基底にある構造を見つけているんだけど、それも植物の根本にあるデザインというものを考えていたんだと思うのです。

自然を見ると、ものすごく多様でしょ。何十億年という持続性をもっているわけじゃないですか。誰かがつくったものであったとしても、また自己生成的(オートポイエーシス)につくられるものであったとしても、つくられたものを見れば、その背後にある知性がわかる。

——キリスト教には、世界は神=創造主がつくったという観念がありますね。

坂本:キリスト教はキリスト教で首尾一貫していてね。僕らの目に触れる自然や宇宙は、非常に美しい形や構造をしている。「動き」というものを説明したニュートンなんて一番いい例だけどさ。世界がこれほどまでに数学的に奇麗に寸分違わず動いていることを見つけると、この宇宙をつくったものの知性が分かる。その元になっているのが『創世記』で、最後に人間アダムをつくって、アダムに地球はお前のものだからお前が管理しろって言っている。神に委託されているんだから人間は好きにしていいという考えが、世界はデザインされるものだというブルース・マウの考え方にもあると思います。

それは日本人がもっているアニミズム的な、多神教的な考え方とは違う。日本人の感性では、自然が危機的な状況にあれば、そこに人間が手を下すよりも、手つかずの自然に帰してあげたいって思うよね。宮崎駿もそう。それが僕らが縄文人から受け継いだ感性なんだけど、世界をデザインするという感性とは全然違うよね。

例えば、庭っていうのは世界観の現れなんです。自然というのは、放っておけば、ぐちゃぐちゃな非常にフラクタクルな形になっていくのを、どうしてもきちっと刈り込んで整列させるみたいな感覚が、ヨーロッパ人にはある。それはアジア人の感覚とは異なる。僕なんか特にそうだけど、自然は人間が手を下さないとものすごく複雑になっていくじゃないですか。どんどん多様性が増して、ケイオティックなものになっていく。僕らには、むしろそれを良しとする感覚がある。

——マッシブ・チェンジは、世界がデザインされたものだというヨーロッパ的な感性がベースです。ただ、そういうヨーロッパ的な自然と人間との関係区分を無化してしまうような、両義的なところもあると思うんですが。

坂本:たしかにマウはスターウォーズに出てくるような人工都市をつくれって言っているわけじゃないからね。そこは微妙ですけど。

世界の見方というのは、デザインなんですよ

坂本:あるものが壊れれば、それは人が使用しなければ、自然に帰っていく。それが自然ですよね。僕はそれを美しいと思うんです。例えばマサイ族は、その辺にある牛の糞と泥で家をつくるんです。10年ぐらい使っていると傾いてきちゃう、そうするとまたちょっと離れたところにつくる。放置された集落は、何年かすると倒れて土に帰っちゃう。集落のまわりには土に帰りかけた集落が点々とある。それは縄文時代の集落と、とても似ているんだけど。

縄文まで戻らなくても、僕らの先祖もたかだか50年ぐらいさかのぼれば、そうだったんですよ。プラスチックなんてなかったんだから。マサイ族の人たちにとって、使わなくなったものをその辺に捨てるということは、別に問題ないわけ。何万年もそういう暮らしをしているわけだからさ。昔はものというものは土に戻るだけだったんだけど、ここ30年ぐらいでビニール袋やプラスチック製品がたくさん入ってきて、そこら中にものすごく溜まっちゃっているのね。例えば、ビニール片が川に流れ込んで、生分解されないからそのまま魚が食べて窒息しちゃったりする。でもマサイ族の人に、だから捨てちゃいけないよって教えるのは難しい。ここから言えることは、ビニール袋やプラスティックのような石油製品のほうが、もともとデザインとして悪いものなんです。そんなことは、はっきりしてるんですよ。捨てちゃいけないよっていうより、そんな自然の摂理にかなわないものを使わなければいいのだから。もちろん現実的にはゴミは分別した方がいいのだけれど。

——そこで僕らはデザインを間違えているのだと。

坂本:そう。

——人類の存続にかけて、もうデザインを間違えたらいけないところに来ているんですね。

坂本:自然の中にゴミというものはないんだよね。無駄なものはないから。僕は雑草という言葉も嫌でさ。人間にとって役に立たない草だから雑草って呼んでいるだけで、自然の中に役に立たないものはない。ただ人間の傲慢さから、これは雑草だってみなすわけでしょう。あるいは害虫だとかさ。そういう発想も嫌ですよ。本当に変な話だよね。つまりそれは、世界の見方でしょう。世界の見方というのは、デザインなんですよ。

(了)

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