俳句はネット社会を生き抜けるか(1)

ネット社会の諸問題

インターネットの先駆け的な役割を果たしたとされる、『Whole Earth Catalogue』という雑誌がある。その名の通り、地球全体のカタログである。カタログと言っても、商品だけでなく、地球の情報化カタログと言ってもいい。誰もが、限られた情報コミュニティから解放されて、世界中の異なる情報にアクセスでき、多様な世界を共有できるという理想に支えられたメディアであった。

この理想は、インターネットに受け継がれていくかに見えた。たしかに、インターネットの海底ケーブルは地球をぐるぐる巻きにしてするほどであるし、インターネットアクセスを可能にする低空衛星が上空をぐるぐる回っている。もはや、われわれは全体(Whole)を手にしたかに見える。しかし、今むしろその理想を裏切るような現実が露呈している。

卑近な例になるが、私のiPhoneでYahoo! ニュースを開くと「ヤクルトスワローズ」を始めとした野球に関するニュースが大量に流れてくる。これは、ひとえに私がYahoo!ニュースでヤクルトスワローズの記事をよく見ているからであり、Yahoo!のアルゴリズムによって私は「ヤクルトファン」や「野球好き」にプロファイリングされているからである。

これは、Googleであれ、Facebookであれ、Amazonであれ同様である。私のアカウントに紐付けられた検索情報から、私が好むであろう情報(特に広告)を予測して表示するようにプログラムがなされている。予測に用いられる情報は、好みの傾向が似ている別の個人の情報も使用され、予測精度を高めている。こうして、私はプラットフォーム上でのパーソナライゼーション(個人化)が進み、数値に還元される。各プラットフォームにおいて、私は個人を識別する情報の偏差の上に置かれることになるのである*1。

なぜ各プラットフォームがこのようなパーソナライゼーションを行うのか。それは広告主とのマッチングに利用するためである。SNSも検索エンジンも広告収入によって成り立っている(Amazonや楽天のようなECも購買まで行うが、買われやすい商品をおすすめする点では同じである)。企業サイドからすると顧客獲得コストを落とせる効果的な広告戦略なのである。

このようにわれわれが日々得ている情報は限られている。行動心理学では「確証バイアス」と呼ぶが、われわれは自分の信念や意見を強化する情報を気づかぬうちに選びとっており、それに合うような情報を受け入れやすくなる傾向を持っている。このバイアスにより、人々は知らずに自分と同じ意見を持つ情報を求め、それに反する情報を退けている。このように意図せず、特定の情報や意見に囲まれ、それ以外の情報にはほとんど触れる機会がない状態を、米国の憲法学者キャス・サンスティーンは「インフォメーションコクーン」と名付けた*2

また、環境活動家のイーライ・パリサーは、SNSや検索エンジンといった情報プラットフォームが、個々のユーザーに合わせて情報をフィルタリングし、その人の興味や過去の行動(検索や訪問履歴)に基づいてカスタマイズすることによって生じる現象を「フィルターバブル」と呼び、警告している*3

さらに、同じ意見を持つ者同士がSNSでフォローし合うことで集団が形成される。ある意見は、ハッシュタグや「いいね」ボタンによって反応することによって増幅され、ますます目に入りやすくなり、強化される。これは「エコーチェンバー現象」と呼ばれ、もしその意見が偏った情報であっても、自分がそのコクーン(繭)やバブル(泡)の中にいると偏りに気づきづらくなる。

こうした環境では、情報拡散が指数関数的に広がってしまうことがある(「サイバーカスケード」と呼ばれる)。この現象が起きると「フェイクニュース」をあたかも事実であるかのように拡散してしまうこともある。その結果、同じ意見を持つ集団が先鋭化し、自分たちと異なる意見を持つ人たちを攻撃し始めることすらある。この例としては、2021年の大統領選挙で、敗北を認めないトランプ大統領に扇動された支持者たちが連邦議会に乱入し、死者を出した事件が記憶に新しい。

こうしたネット社会特有の現象やパーソナライゼーションのための技術は、マーケティングという資本主義的な動機だけでなく、政治的なプロパガンダにも利用され得るということである。

こうしてみるとインターネットは、その黎明期にわれわれが手にしたかのように思えた「全体」は幻であり、現実はますます情報の限られた狭い領域をあたかも「全体」であるかのように錯覚し、自ら進んでそこに完結してしまうような人間を増殖させているだけのように思えてくる。

私にも思い当たる例がある。野球の話であるが、例えば、ある試合でデッドボールが起きると決まって、両チームのファンの間からエスカレートした発言が飛び交い始める。インターネットのない時代は、飲み屋の愚痴で終わっていたものが、SNS上では「エコー」のように拡散されて響き渡る。

中には、選手のSNSアカウントに直接、書き込むものもいる。昔は、選手の耳に届くものとしても、せいぜい客席からのヤジ程度であったが、今はSNSやそのコメント欄に誹謗・中傷が書き込まれるのである。選手の身になるとたまったものではない。ファン心理というものは、一つの「狂気」のようなものであるから、このようなことが起きてもおかしくはない。インターネット環境がその狂気を増長してしまっているのだろう。

しかし、同時に誹謗・中傷を止めようとする声も同じくらいの勢いで拡散される。あまりにひどい誹謗中傷を行っているアカウントを通報する人もいる。体感的には、リテラシーが低く熱狂しやすいファンは、一部の人間にすぎず、リテラシーの高いファンのほうがずっと多い。もちろん熱狂に取り憑かれた人の多くは、こうした声は自らフィルターにかけてしまうのであろうが、我に返る人もいないわけではないだろう。このようにネット社会にはいくらか自浄作用が働く例もある。

いずれにしても、こうしたネット社会の諸問題への対処として考えられるのは、まず「メディアリテラシーの向上」が挙げられる。信ぴょう性の高い情報かどうかを判断する能力や情報に潜んでいる虚偽や偏向を見極める能力が必要になる。そのための教育や対話の場の確保が欠かせない*4

また各プラットフォームへの法的な制約も必要になる。2018年にEUでGDPR(EU一般データ保護規則)が施行され、IPアドレスやCookieなどのオンライン識別子を個人情報保護の対象とされる規制がなされ、そのほか世界各国でも同様の法規制が行われつつある*5

今後はAIが監視を行い、警告を発したり、ときには強制的にアカウントを閉じるというようなことも起こり得るかもしれないが、しばらくは問題が起こるたびに人々のリテラシーを高めつつ、法規制に基づいたテクノロジー側でのさまざまな対処がなされていくことになるだろう。

*1:ネット社会は、テレビのようなマスメディアを母体とした大衆とは、様相が大きく異なる。デジタルメディアがターゲットとしている大衆とは、パーソナライズドされた個人であり、さまざまな傾向を持った個人がモザイク状に織りなす複雑なまとまりである。モザイク状のまとまりは、テクノロジーによってますます細かくなり、解像度が上がっていく。見方を変えて言えば、解像度があがっていくということは、個人がますます孤立していくことでもあり、また孤立する個自体もまた複数の個に分裂されていくところでもある。例えば、同じ個人であっても、複数のデバイスを持つ場合もあるし、また会社でのアカウント、プライベートのアカウントを分けることもあるし、さらに、ビジネス用アカウント、趣味用アカウント、家族用アカウントなど、複数のアカウントを併用することもある。ネット社会における「私」とは、アカウントとパスワードによって紐づけられた、複雑なプロパティとパラメータの数値によって分類されているデータにすぎない。固有名なしに個人を特定するような情報のかたまりとして存在しているのである。
*2:キャス・サンスティーン(2001)『Republic.Com』[邦題(2003)『インターネットは民主主義の敵か』]
*3:イーライ・パリサー(2011)『The Filter Bubble』[邦題(2012)『閉じこもるインターネット』]
*4:ジェイミー・バートレット(2011)『The People Vs Tech: How the internet is killing democracy (and how we save it)』[邦題(2018)『操られる民主主義: デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか』]の中で、テクノロジーから政治を守るための20のアイデアを述べているが、個人の意識改善や防御策が真っ先に挙げられている。そのほかにも法制規制や制度の改善など、政治的な課題も挙げられている。
*5:Googleはこれまでデジタルマーケティングに欠かせなかった3rd Party Cookieの利用を制限している。すでにAppleは1st Party Cookieの利用制限も始めている。それでもなお、別の技術を用いて個人を特定しようする動きに止む気配はない。

※『きごさい16号』(2024年)に掲載されたものです。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA