ネット社会の大衆の姿
ネット社会において、自分に都合のいい他者の意見に熱狂し、それに反する意見を攻撃し、排除しようとする個人の姿は、かつて丸山眞男が「私化」と「原子化」と呼んだ個人の姿にどこか似ている。
丸山眞男は、「個人析出のさまざまなパターン」*6の中で大衆社会における個人の態度を四つに分けている。それは次のような結社形成的(associative)―非結社形成的(disassociative)を縦軸とし、求心的(centripetal)―遠心的(centrifugal)を横軸とした座標の四象限からなっている。どんな社会にもそれぞれの象限に個人は存在するが、傾向やバランスが大きく異なるというわけだ。
(D)民主化(democratization)=結社形成的/求心的
(I)自立化(Individualization)=結社形成的/遠心的
(P)私化(Privatization)=非結社形成的/遠心的
(A)原子化(Atomization)=非結社形成的/求心的
「結社形成的―非結社形成的」は、集団を形成するか、孤立し分離するかという軸。「求心的―遠心的」は、政治的権威に対して近づく傾向があるか、遠ざかる傾向があるかという軸である。前者は権威に従順であり、後者は権威に反発する。
日本社会の特徴は、他の国と比べて「非結社形成的」であることである。ヨーロッパ文明においては、産業革命以降、農業共同体や伝統的な共同体から析出した個が、新たな集団を形成する。例えば、職能集団、宗教団体、労働組合、地域社会などもそうだ(それは国家と個人の間にある集団という意味で「中間勢力」という言い方もできる)。つまり、ヨーロッパには日本と比べて(D)民主化や(I)自立化に分類される個人が多い。日本においては、析出された個人が結社を形成する前に、国家に包摂されて、大衆社会にいたったため(P)私化や(A)原子化が多い。例えば、選挙で「浮動票」と呼ばれる層が日本に多いのも、「非結社形成的」な特徴と言える。
一方、丸山眞男はこの(A)原子化した個人について、同書で次のように説明している。
《このタイプ(I)と全面的に対立するのが原子化した個人で、求心的・非結社形成的で他者志向的である。このタイプの人間は社会的な根無し草状態の現実もしくはその幻影に悩まされ、行動の規範の喪失(アノミー)に苦しんでおり、生活環境の急激な変化が惹き起こした孤独・恐怖・不安・挫折の感情がその心理を特徴づける。原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義的リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。》
また、(P)私化した個人については、次のように説明する。
《私化の場合には、関心の視野が個人個人の「私的」なことがらに限局され、原子化のそれのように浮動的でない。両者とも政治的無関心を特徴とするが、私化した個人の無関心の態度は、自我の内的不安からの逃走というより、社会的実践からの隠遁と言えよう。こうして彼は、原子化した個人よりも心理的には安定しており、自立化した個人に接近する。しかし、他方、この隠遁は彼の関心の私的な消費と享受の世界に「封じ込める」傾向を持つのに対し、自立化した個人の場合には、自己の私的な関心からして政治に参加する条件がつねに備わっている。》
私化した個人や原子化した個人は、タイプを異にするとは言え、孤独なのである。前者は消費社会の中で安住していられるが、後者は孤独から逃れたがっている。孤独な個人が、ネット社会を心のよりどころとするようになると、前者は私的な欲望を充足するために消費行動に依存するだろう。まさにパーソナライズされたマーケティングに都合のいいターゲットである。後者は、エコーチェンバー現象やサイバーカスケードを引き起こす母体となっていくはずだ。
もちろん、私化した個人や原子化した個人は、ネット社会以前からいる。しかし、インターネットは、そうした個人の傾向を助長しているとも、孤独の受け皿になっているといも言えるだろう。
さらに、丸山眞男は、結社形成的(ID)な個人が、近代ヨーロッパに限らず、すべての近代社会に通じる理想状態ないし究極目標とされるとしつつも、テクノロジーの進化が非結社形成的(PA)な個人を増大させると述べている*7。
《結社形成タイプ(ID型)では、近代化の進行とともに自立化や民主化の行動様式が優勢になる。各種の自発的結社が数多くあらわれるが、そのいずれをとっても成員の全人格をのみこむようなものはない。自立化した個人が営むフィードバックの機能によって社会の極端な政治化と過度な集中はおさえられ、しかも政治的無関心に向かう傾向は、もっぱら民主化タイプの行動によってくいとめられている。〈中略〉 テクノロジーにおける高度の近代化が進むにつれて、西欧においても、非結社形成型が多くなって原子化ないし私化の形をとってあらわれる政治的無関心が、民主的制度の機能を攪乱する可能性が生じているのである。》
たしかにインターネットは、人と人を容易に結びつける。しかし、それは共同体から切り離された個人が新たに形成する社会とは異なる。いくらSNSで「フォロワー」が何万人いようとも、フォロワーは「友達」とは言えない。ある意味、連絡先を知っているだけの知り合いと変わらない。ましてその中に「親友」と呼べる人がいるだろうか。ほとんどいないのではないだろうか。そう考えると、ネット社会を生きる個人の孤独を裏返しで証明しているかのようである。
このような文脈から、あらためて俳句の世界を見直してみよう。
俳句結社は「結社」というが、結社に所属する個人は、丸山眞男が言うような「結社形成的」(associative)であるかどうかはわからない。しかし、少なくとも「結社」という以上、そこにはネット社会に生きる個人を相対化する力となり得る可能性があるのではないだろうか。
もちろん、結社の在り方が、SNS上のフォローや「いいね」ボタンのようなつながりに還元されてしまうようなら、この仮説は間違いだったということになる。さらに言えば、そもそも結社がみな主宰の意見を何の内省もなく、教義のように受け取ってしまう個人のあつまりであれば、それはネットに移行する以前の問題である。丸山眞男の言葉で言えば、成員の全人格がのみこまれている。
新型コロナウイルスの感染拡大を機に、投句や選句、句会といった俳句従来のイベントも、ネットに移行している俳句結社も多いだろう。リアルな句会がなくなると、人と人とのつながりが希薄になったと感じている俳句の実作者も多いのではないだろうか。仮に、これまでの俳句結社の成員の多くが、「結社形成的」な個人であったとしても、(I)から(P)へ、あるいは(D)から(A)へ移行する個人が増えているということになるかもしれない*8。もし俳句結社が、ネット社会に埋没してしまうとしたら、ますます結社性を失って、私化した個人や原子化した個人の吹きだまりと化すのではないだろうか。
俳句はネット社会を警戒すべきなのかもしれない。
*6:「個人析出のさまざまなパターン」(『丸山眞男集第九巻』収録)。
*7:日本近代において、数少ない(I)の特徴を持った人物として、丸山眞男は石川啄木を挙げている。《私化とははっきり区別される自立化の傾向を示す若い少数のインテリも成長しつつあり、石川啄木はその一人であった。〈中略〉啄木は一般に急進的社会主義の同情者と見られ、あるいは感傷的ロマンチストとかいわれている。しかしその思想と行動を立ち入って検討すれば、彼の生活態度は、当時の自称「個人の解放」の主唱者の多くよりもはるかに、開かれた結社形性的な個人主義のエートスに近づいていることは明らかである。》
※『きごさい16号』(2024年)に掲載されたものです。