百合の花おける小舟の舳哉 松瀬青々

小舟の舳(へさき)におかれている一本の百合の花。山百合か、姫百合でしょうか。ふと、この句を読んで思ったのは、この百合の花は供花ではないか、ということでした。その舟の行き来する河で亡くなった童女か、もしくは、船頭が先立たれた妻を思っておいたのかもしれない。死者でなくとも、遠くはなれていて会えなくなった人かもしれません。そこにはもういない人の面影を感じていたいと思う人の心を見つけたのです。おそらく「小舟」という言葉が、此岸と彼岸を往来するということの意味をどこかで含んでしまっているからかもしれません。そのように百合を見とどめる「まなざし」をつかむと、なぜか次は自分がその百合に成ったかのように、舳先が川面を切って進んでゆく情景すら見えてくるから不思議です。もちろん、この句自体は何も説明してません。なぜおかれているのか、誰がおいたのか、などという理由はすっぱりと切り落とされた、素朴な句です。しかし、その素朴さゆえに、読み手の想像力を引き出す力が倍増するのです。説明されてしまえば、読み手の想像が入り込める領域が狭くなる。それが「短さ」を逆手にとった俳句の力でもあるのです。

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