柄谷さんの話

梅雨の最中、久しぶりに柄谷さんの話を聞いた。長池公園で行われた柄谷さんと高澤さんの講義を聞きに行ったのだ。四時間など瞬く間に過ぎた。柄谷さんの話のテーマは「互酬性(reciprocity)」。「世界共和国へ」(岩波新書)の中で展開されてる内容と重なる話が多かったのだが、とくに「所有」の概念についてより深い分析がなされていて印象的だった。柄谷さんは「共同(体)所有−私的所有−個体的所有」という段階説を修正し、

 共同体所有
  ┃  ┗個体的所有
 私的所有

という図を示し、私的所有とは国家において個体的所有の「再建」という形をとってあらわれると説明してくれた。もちろん、ここで詳細を述べることなどできないが、いつもながら、柄谷さんの話は明快である。

久しぶりに会ったのは、柄谷さんや高澤さんだけではない。文芸評論家となった二人の旧友とも久しぶりに会うことができた。それぞれがそれぞれの世界で闘っているのだということが、ひしひしと伝わって来た。またゆっくり飲めるといいのだが。

二次会では、二酸化炭素を温暖化の元凶とする説を否定している槌田敦の理論を紹介してくれた。これは、二酸化炭素の増加は温暖化の原因ではなく、結果であるとする説である。ビールを見ればわかるが、暖まれば炭酸ガズは気体となって放出される。大気が暖まる要因としては、ジェット機の排出ガスの影響が多いというのである。上層圏でジェット機が排出するガスの温暖化への影響は、車が地表で排出するガスなどとは、比べ物にならないのだそうだ。

二次会で酒を飲んだ後、柄谷さんに誘われて駅前でコーヒーをご馳走になった。そのとき質問にならない質問をしつこく投げかけていた若者がいて、彼女の言葉を遮るように、柄谷さんはこう言った。「幸せとは他人の不幸を含んでいるんだよ」と。幸せを望むものは同時に他人の不幸を望むことになる。貧困や飢餓であれ、戦争や虐殺であれ、環境汚染や環境破壊であれ、世界にはさまざまは問題があるが、そのような問題と無関係に存在することなど不可能なのである。なぜなら、誰かが富めば、誰かが飢える。誰かが幸せになれば、誰かが不幸になる。われわれはそのような「関係」の中にある。だからこそ、想像力と理念を失ってはならないのだということだろう。

私は柄谷さんと韓国ドラマのチュモンの話をして盛り上がったのだったが、家に帰ってから、自分なりに「世界共和国」とはどんなものなのか、乏しい頭を使ってみた。やはり難しい。それでも柄谷さんの言葉を手がかりに考えてみる。例えば、今回のチベット問題であるが、国際世論というものの力は大きかった。世論は法の問題ではないから、罪(違法行為)と判断し、罰(暴力的な制裁)をあたえるような強制的な力をもたない。しかし、それとは別種の力が働いていることは確かである。それはメタフィジカルな力である。罪悪感というよりも「恥ずかしい」という意識に近いように思う。簡単に言うと、世論というものは、そんなことで暴力をふるうなんて子どもみたいで「恥ずかしい」とか「みっともない」というような意識ではないかと思う。人を殺したら罪になるということではなく、人を殺すなんて恥ずかしくてできないというほうが、ずっと立派な社会だと思うのだが、どうだろうか。国際世論が、熱狂的な感情による世論ではなく、そのような「恥」というパブリックな倫理性にもとづいて機能するようになるのは、どうしたらよいのだろうか。

講義を終了後、柄谷さんに引き連れられて、長池公園から山の中を歩いて丘を下り、国道を越え、二次会の場所を目指して南大沢駅まで歩いた。降りつける雨などおかまいなしで、ぐんぐん歩いていく柄谷さんの背中を見つめながら思った。自分が心からすばらしいと思える世界へ、希望を失わずに進んでいける力を私も持ちたいと。

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