落語への熱狂。

漱石と子規と云えば、私が惚れ込んでいる明治の二大文人であるが、その二人のあいだに友情を深めさせたもの、それは落語である。漱石と子規とは寄席通いを通して交遊を深めのだという話を昨年の漱石展で知って以来、私も落語が気になってならない。

とはいえ、落語と云えば、一昨年ごろから笑福亭鶴瓶の落語にはちょくちょく足を運んでいたぐらいで、ほとんど何も知らない。昨年、鶴瓶が歌舞伎座でやった「らくだ」には涙が出たが、落語が面白かったということではなく、亡き松鶴師匠への恩返しという背景に胸つまらせたということであった。松鶴師匠の十八番であった「らくだ」を、五十を過ぎて落語の稽古を始めたという鶴瓶がついに高座にかけたというわけだ。

もっとしっかり落語を知らねばと思い、先月は、その鶴瓶師匠を古典の世界に引きづり込んだうちのひとリでもある、春風亭小朝の落語を聞きに五反田へ行った。落語よりも自身の離婚話のほうが世間をにぎわせていたから、そんな話題から入るんだろうと思っていたが、その話をネタにしたのは一度だけ、しっかりネタをやってくれた。大ネタは「越路吹雪物語」。綾小路きみまろばりのオバ様いじりといい、笑わせて、泣かせて、落とす、その噺の巧みなことといったらなかった。

しかし、そんな矢先、NHKのBSでやっていた立川談志のスペシャル番組で、はじめて談志の落語を見た。驚いたのなんの。談志と比べるのは酷であるが、小朝の噺とはわけが違った。小朝は最年少で真打ち昇進しただけあって、噺家としては天才かもしれぬ。しかし、なぜか落語家という感じがしない。談志は頭のてっぺんから足の指先まで、落語家なのだった。

談志と比べると小朝の芸は消費しやすくできている。客が身を乗り出さぬくとも、ふんぞり返って笑っていられる。ジェットコースターにのっているようなものである。談志の場合は、そういうわけにはいかない。談志のジェットコースターは安全性が保証されていないから、客は常に気が気でない。人生成り行き。これが談志の辞世の言葉となりそうであるが、まさに成り行きで進むジェットコースターのようなものである。

落語は「滅私」によって複数の他者になり、対話を繰り広げる。「滅私」とは、私を滅するわけではなく、超越的なレベルに「私」を隠すことによって、それらの複数の人格を統合する技術ではないかと思う。だから対話によって積み上げらていく噺の世界は安定して、落ちまで進むことができる。ところが、談志の落語はそういうものではない。超越的なレベルに吊り上げられたはずの「私」が、噺の世界の中に割って入ってくることが度々ある。つまり、その「私」は常に噺の世界をゆさぶりをかけるのである。おそらく日常レベルにおいても、談志はこの分裂した「私」との緊張関係を生きているようにすら見えるのである。

談志がかけるのは古典である。古典と云えば、すでにかたまってしまったものだと思うかもしれない。どこかに作り上げられた安定した世界があって、それを古典と呼んでいるのだと。おそらく古典とは、そういうものではない。少なくとも立川談志にとって古典とは、生き生きとしていなければならなかったはずである。そして、生きたその身を通して、生きながらえさせるものでなければならなかった。だから、談志はこう云ったのだ。

古典を現代へ。

古典とは何か。それは古いものではない。もちろん新しいものでもない。つまり、古いか新しいかということではない。保田與重郎曰く、古典とは時代を越えて生き残ってきたものを云う。それは、何によってかと云えば、もちろん人によってである。人の何によってかと云えば、生きた身体によってである。落語のような芸には顕著である。だから、談志という人が死ぬと芸も死ぬということである。落語の一門という制度は、芸をまた別の人の身体を通して伝えていくためのものでなければならない。談志が落語協会を脱退した理由は、この制度が形骸化してしまったことに異議を唱えてのことだと思う。

談志は古典を生きてきた落語家である。毎年決まった時期に桜の花は咲く。それは江戸時代どころか平安時代からずっと変わってはいない。しかし、今咲いている桜の花は、昨年咲いた桜の花とはまったく違う花である。同じ幹からのびた花であろうと、それは同じものではない。しかし、人の心に咲く花は古の世から今現在に至るまで、ずっと生き続いてきたものである。まるで自分が古典主義者のような口ぶりをしていることに驚くが、落語家という人の身体を通して、古典落語は今に甦る。それが芸ということであろう。芸とは、器用ということとは、まったく別次元のものである。

その身が滅する前に、その芸を生で体験しておかねばなるまい。

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