胃カメラ日和

俳句と関係がないことですが、昨日生まれてはじめて胃カメラを飲みました。この数週間、胃の調子がおかしくて、仕事の合間をみつけて近所の医者へいくと、胃カメラを飲みましょう、とさらっと言われ、翌朝すぐに実施されたのです。

飲んだのは、オリンパス製の鼻から入れるタイプのカメラです。口から入れるタイプと比べれば、負担が少ないとはいうものの、鼻の穴から食道を通し、胃や十二指腸まで黒いチューブが入れられるわけですから、それなりにつらさはありました。まず胃が動かないようにする薬を注射され、よくわからない謎の半透明の液体を飲まされ、それが胃全体を覆うように寝ながら右回りに体を三回転させ、鼻の両穴に麻酔薬を各三回×三回計九回スプレーされ、喉に落ちてきくる麻酔薬は不味いけど飲んでいいと言われ、先端のカメラレンズ部分が曲がったりくねったりする得体の知れない黒いチューブを左の鼻の穴からぐいぐいと体内に押し入れられていくのです。

ところで、カメラを入れている最中、その映像をモニタで先生と一緒に見ているわけですが、はじめは恐ろしさがありました。自分の体の内側を覗くわけですから。しかし、不思議なことにそのモニタを見ているときは、それほどでもないのです。見る、見えるということが、むしろ心の働きを抑えるのです。つまり、見えていること自体が安心を生むということです。逆にモニタから眼をそらし、手のひらで腹をおさえ、ここに異物が入っているのだと想像すると、とたんにぞっとします。不思議なものです。

結果は幸い潰瘍も腫瘍もなく、たんなる胃炎ということが判明し、安心しました。

考えてみれば、人類最初の視覚技術は、おそらく水鏡ではないかと思いますが、自らをうつす鏡の発明は大きかったでしょう。もちろん写真や映画もそうですが、人間の視覚は限りなく拡張してきました。望遠鏡、顕微鏡、赤外線、X線などあげればきりがありません。最近では深海探査艇しかり、ハッブル宇宙望遠鏡しかりです。人は人が見たこともないもの、人には見えないはずだったものを目の前に晒しつづけてきたし、これからもそうでしょう。視覚芸術という言葉もありますが、それもいわば視覚技術の一部にすぎないのかもしれません。昨年の小柴教授のノーベル賞の受賞は、素粒子(ニュートリノ)の存在を証明したことにたいしてではなく、素粒子の観測技術の発明に対するものです。つまり、素粒子をとらえて視覚的に表現できる技術ということです。それによって、火山の動きが視覚化できるようになったと言います。

そういえば、先日たまたま「高校の地学」という教育番組を見ていたら、地球の表面から、地殻、マントル、外核、核という中心に向かっていく、地球の断面図を使って、プレート動く理由を説明していましたが、もはや地球の内部のライブな動きが見えてしまう日もそう遠くはない気がします。

そんなことを思いながらも、胃カメラでショックをうけるぐらいですから偉そうなことはいえません。個体史と人類史はかならずしも一致しないのでしょう。

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