海鼠(なまこ)は、冬の季語。海鼠と言えば、芭蕉の名句が思い浮かぶ。
〈生きながら一つに凍る海鼠かな〉芭蕉
これまで詠まれてきた海鼠の句は、数知れず。しかし、この芭蕉の海鼠の句は、別格だ。青々はこの句はいわば芭蕉の句の類想句である。もちろん、青々もそんなことは百も承知。それでも詠むのである。なぜなら、この句の神髄を舐めたいからである。いや、舐めるどころか、喰ってしまいたいのである。青々は俳誌「倦鳥」のなかでこう書いている。
《海鼠でも眺めてゐるよりは喰ふ方が自己の感銘を発揮する材料に成り易い、喰ふといふ事は兎に角自己を海鼠と同じ渦中に押し進めてゐるのである》
青々は句を詠むときの態度を言っているのだが、やっていることは、それだけではない。句そのものもまた、眺めているだけではなく、喰ってしまおうとしているのだ。青々は単に句作における「海鼠」という対象への近づき方のみならず、〈生きながら一つに凍る海鼠かな〉と詠んだ芭蕉への近づき方もまた、「喰ふ」なのである。喰うというのは、知識として得るのでは得たことにならないような得方で得たいということだ。つまり、海鼠をして芭蕉の神髄を体得しようとするのである。だから、青々はこのあとも多くの海鼠の句を詠んでいる。
〈海鼠今松葉しぐれて桶の中〉
〈海鼠こそ賢愚の外にありぬべし〉
〈あはれがる人を憐む生海鼠〉
〈生きながらそれが総てで海鼠かな〉
芭蕉の句を越え得たか否かは、ここでは全く問題にはならない。何度も「海鼠」を詠むのは、芭蕉があの海鼠の句で触れたものに、「直に」触れたいと望んでいるからだ。つまり、青々は繰り返し「自己を海鼠(=芭蕉)と同じ渦中に押し進めてゐる」と言っていい。ここに青々のまっすぐな欲望が浮かんでくるのである。
同じ俳誌「倦鳥」では、続けてこう書いている。
《従来の見方は余り馴れきつてゐた。馴れきつた見方で軽々に見てそれで句を作ってゐた。因襲の弊はそこにある。我が肌を触れてゐる程の刺戟を感ずる見方が必要だ》。
この言葉通り、芭蕉は従来の見方では見えなかったものを、句をもって誰もが肌で感じうるものとしたと言える。もちろん、青々のこの言葉も句作の態度について言っていることである。しかし、青々がやっていることからわかるのは、青々は芭蕉という人に対してもまた「我が肌を触れてゐる程の刺戟を感ずる見方」をしていたことである。つまり、青々は単に芭蕉を勉強したのではない。いかにして芭蕉の句の神髄に直接触れ、そして芭蕉を血肉化するか。それを試みたのである。
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