花について

小林秀雄は晩年、現代の若者たちに向かって、ソメイヨシノとは桜の中でも一番低級な桜だと語ったことがあります。日本で花といえば桜、桜といえばソメイヨシノではなく、ヤマザクラなのだと言いました。たしかに、その通りです。ソメイヨシノは、ご存知のとおり、江戸時代の後期、染井村(今の東京駒込あたり)に住んでいた植木職人がオオシマザクラとエドヒガンを交配して造った新品種(雑種)です。古来、歌に詠まれた桜は、ヤマザクラです。

しかし、軍国主義イデオロギーによって、不当に汚された桜の名誉を回復せんとするためにとはいえ、ソメイヨシノにとっては、不当な物言いです。そもそも、軍国主義イデオロギーによって不当に負のイメージを塗られてしまったのは、ソメイヨシノであって、ヤマザクラではありません。むしろヤマザクラの名誉は回復しやすい。ソメイヨシノはヤマザクラの名誉回復にも利用されたうえ、さらに負のイメージを上塗りさせたようなものです。

ソメイヨシノは、そもそも人間が愛でるためだけに、人工的に造られた花です。その挙げ句、戦争の道具にまでされたのです。低級低俗なのは、時々の都合で価値を上げたり下げたりする人間のほうであって、ソメイヨシノではありません。ヤマザクラの価値を上げるためにソメイヨシノを貶めるのもまた、人間の都合です。このように都合が悪くなれば、その原因を一方に押し付けるような見方をしていると、桜の本当の姿は見えて来ないのではないでしょうか。まして、花の本意など到底わかるはずもありません。

日本中のソメイヨシノはすべてが一本の樹から接ぎ木で増やされてきたクローンです。自然交配できないので、人間がいなければ生きていけない花です。だから、小林秀雄のような人から低級のレッテルを貼られて、人間から拒絶されてしまったら、自然にも戻れないソメイヨシノはどうしたらいいのでしょうか。きっと人間を呪うのではないでしょうか。

実は私が生まれ育ったのは、まさしく染井村、今の東京駒込です。しかし、ソメイヨシノと縁のある土地であることなど、学校でも地域でも誰一人、教えてくれる人はいませんでした。未だにソメイヨシノが私にとって身近な花だという感じもありません。ただ見方によっては、人間自身がソメイヨシノのようになりつつあると言えなくもありません。

ゲノム(遺伝子情報)の解析はコンピュータ技術の進歩により飛躍的に進んでいます。ほ乳類のクローン増殖も成功しています。人工的にマウスの背中で人間の耳を複製する実験などが有名ですが、人体のパーツも人工的に造り出そうとしています。植物に関しては、食料不足をおぎなう技術として以前から注目され、世界中で遺伝子組み換えはさかんにおこなわれています。

山の植生を維持するのにも、人の手が必要です。外来種による侵蝕もありますが、戦後林業の拡大によって、植林された山では、そのままではもとの植生には戻らないそうです。もとの雑木林にするには、人の手が必要になります。海もそうです。魚は養殖だけでなく、天然といいながら、もともとは人間が稚魚を放流している漁場で捕っているのが大半です。いわば、我々が自然と思っている海や山ですら、すでに何らかのかたちで人の手が入っているのです。

そう考えると、今の社会はソメイヨシノの姿そのものに見えてきます。自然と人間の境界にあって、両者に拒絶されたはずのソメイヨシノが、実は社会全体を覆い尽くしているわけです。

実際ヤマザクラはいま絶滅が危惧されているそうです。

このような社会で「花を詠む」とは、どういう意味があるのか。我々はよく考えなければなりません。

小林秀雄はエッセイの中で《美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない》という言葉を残しています。小林秀雄が言いたいのは、美とは実践的(倫理的)な場所からしか生まれてこないということです。

つまり、いくら歌や俳句の中で花の美しさを詠んだとしても、現実と乖離したものであれば、それは空虚なものでしかありません。花を詠むためには、現実の花をなくしてはいけない。つまり、ヤマザクラが自然交配して、自生できるような山をのこさなければならないわけです。これは、とりわけ歌人や俳人に課せられた役割ではないでしょうか。そのうえで、花を詠み続けること。これが、人間自身がソメイヨシノ化する世界に埋没しないための策なのではないかと私は思っています。

  花守も山守もみな平和守  千方

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