ままごとのわらべのしたる懐手 飴山實

懐手(ふところで)とは冬の季語で、着物の懐に手を入れて暖めることです。「懐中手」とも書きます。腕組みに近いですが、和服の袂に腕をつこんでいるしぐさです。しぐさというのは一つの記号ですから、状況のよって様々な意味をなします。例えば、書生の懐手は、何かを考えてたり、悩んだり、思索にふけっているという意味がとれるし、憂鬱な顔した人の懐手は気苦労をしているようにもとれます。これは、そもそもは「寒さ」という「不快」に耐えている状態をあらわすしぐさですから、その「不快」が寒さという身体的なものから、知的なものや心的なものに置き換わっているわけです。また、げんこつの腕組みのような懐手は悪ぶったり、偉ぶったりしているようにもとれます。これはどんな「不快」であれ、自分はなんともないぞ、という強さの主張、つまり虚勢に意味が転じているわけです。

この句の場合は、ままごとをしている子供の懐手です。懐手という大人が問題を抱えたときにするしぐさを、子供が模倣している様子を詠んだわけです。人によっては単に微笑ましい子供の姿を思うだけかもしれませんが、私はもっと踏み込むべきものがある句だと思っています。詳しくここで書くつもりはないですが、子規が俳句の革新の中心に据え、漱石によって付け継がれた「写生」の本質が、この句に見事に詠まれていると思うのです。柄谷行人のヒューモア論が念頭にあるのですが、時間のあるときにまとめてみます。柄谷さんがフロイトから引用して、「イロニーが他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放する」と書いていますが、まさに大人(つまり、読み手自身)が「不快」を抱えている、その腕を解いてしまう句だと思うのです。

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