握りゐて女にもらふ蛍かな 松瀬青々

季語は「蛍」で夏。この句に登場する女性は、かほそく小さな手の持ち主と見ました。その手から蛍をもらうときに伝わるものは、握りの「軽さ」です。握っている手指の「軽さ」が、蛍の命の「儚さ」を同時に伝えてくるのだと思うのです。女の手から己の手に蛍が移るとき、まるで蝋燭の火が一瞬消えかかるように、蛍の命の灯りも消えかかる。その通常の時間感覚がふっと止まってしまうような、長いようで短い時の間に間。まさに、その「間」をとらえた一句といっていいと思います。

ところで、余談ですが、松瀬青々の句集を読んでいると、かなりの頻度で「女」が登場てきします。これまで〈桃の花を満面に見る女かな〉という女の句と〈日本に男うれしき幟かな〉という男の句を紹介しましたが、句全体の数から言うと、圧倒的に「女」のほうが多いです。

〈寝よげなる女と坐り薄暑かな〉
〈かげにいて涼む女の膝しろし〉
〈氾濫を感ずる裸女かな〉
〈紫陽花の闇に女を感じけり〉
〈汗女そのかくさぬがわすられぬ〉
〈両手両足投げ出して女内暑き〉
〈女の手蚊遣線香をほどきけり〉
〈朝皃にうすき粥たく女かな〉
〈朝顔に見ゆる弱みを女かな〉
〈知る女まめで夜長に来るかな〉
〈桑刈るに女は乳のをどりけり〉
〈浪華女のせめて花挿せ近松忌〉
〈しゞううつむいて時雨の女かな〉
〈話しかけるやうに女が火を焚きて〉
〈出女の故郷戀ひ泣く白魚哉〉
〈梅の花高麗乙女の胸乳かな〉
〈桃の花しら髪と成りし女立つ〉
〈強ちにしふる女や桃の酒〉
〈菜の花に女の帯のゆるぶかな〉
〈早乙女は乳まで降りのぬれとほり〉

ざっと並べてみても、これだけあります。青々はきっとモテたのでしょう。女を描いた画家は山ほどいるのに、ここまで女を詠んだ俳人というのは、ほかにはいないのではないでしょうか。

あるいは、こんな句もあります。

〈雛の日は女となりて遊びけり〉

たいへん愉快な人だったのだろうと想像してしまいます。

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