初山河まづ太陽のとほりゆく 長谷川櫂

太陽の描写する場合、たいていは「のぼりゆく」や「わたりゆく」。気象や天文など科学的な分野では、軌道を表す際に、太陽が通る、通過する、ということはあるが、俳句ではめずらしい使い方ではないだろうか。

「のぼる」や「わたる」だと、一視点から構成された景色が見えてくるが、「とほる」というと景色に収まらず、巨視的な位置から太陽をとらえている感じがする。

さらに、「初山河」は「初景色」の傍題であるが、「初景色」では、文字通り、景色におさまってしまう。絵葉書のような一枚絵の世界にしか見えてこない。

つまり、この句の世界には固定したフレームがなく、時間も動いている。だから、いま太陽が通り、年が明けていく、そのうつろいゆく時を感じることができるのだ。

東の空にあらわれた太陽の光が、山肌や川面をゆっくりと照らし出してゆく。そして太陽の光が照らし出すところから、年が明ける。飛行機やドローンや人工衛星などが通っても年は明けない。太陽でなければならない。暦の中心はあくまでも太陽なのであって、人間ではない。

そんな世界を人間はあたりまえに甘受している。この句のユーモアはそこにある。

出典:句集『新年』

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