菊切りに出てゐて茜びたしかな 飴山實

夕暮れの庭に出て菊を切っている。ふと気づけば、茜色にひたりきってしまっているのだった。散文で書けば、こうなるでしょうか。この句は、視覚の句ではないと思います。夕陽の赤に染まった世界を見ているのではなく、視覚を狂わすほどの赤に体全体でひたりきっているということでしょう。つまり、風景を切り取るような視線はなく、「茜びたし」になっている何ものかがあるだけです。それは茜色の日の光を浸透し吸収してしまうスポンジのように孔の空いた皮膚をもった体です。体は水分でできているので、もはや融けかけているようにも感じます。上五の「菊切りに」のK音と「切」という字が、この句の「皮膚」に孔を空けるような効果もあるのかもしれません。この句を詠み込めば誰しも、染まりやすく、沁みやすく、濡れやすく、融けやすい何かになる。それを「述語的同一化」というような言葉でも説明できることなのかもしれませんが、ここでは深入りしません。いずれにせよ、飴山實の俳句において、皮膚の浸透力がいかに本質的であったか。この句の「茜びたし」という一語において、もはや決定的に思えてきます。

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