昨日、この句を思わせる光景を目の当たりにしました。まだ梅雨明けには早いですが、朝からすでに夏の光を思わせるくらい日差しが強く、通勤バスを待つ人の列にも、気だるさただよっていました。私もそのバス停で最寄りの駅まで行くバスを待っていました。すると、どこからともなく目の前に、二羽の蝶がもつれあいながら空から落ちてくるのです。まるで、そこだけ重力が軽くなったかのようにゆっくりと、音もなく。雌雄の交尾なのか。占有行動による攻撃なのか。アスファルトの地面に落ちてもまだ、蝶は翅をばたばたさせています。そこにさっと涼しい風が吹いてきて、一匹がその風に乗って飛び立ち、すぐにもう一匹もあとを追っていきます。マンションの壁にあたって吹き上がる風に乗り、二匹の蝶は空高く舞い上がり、消えていきました。これは句に詠まねば、と思いました。会社に着くまで、いくつか作ってみたのですが、そういえば、こんな句があったじゃないかとこの青々の句を思い出したのです。
あらためて読んでみて、とてつもない句だとつくづく思います。もちろん頭をくらくらさせるような「日盛り」という季語も効いていますが、あきらかにすごいのは下五の「音すなり」です。「なり」は伝聞の助動詞。土佐日記の「男もすなり」のなりです。蝶の羽根が触れ合っても、もちろん音などしません。したとしても、聞き取れないほどのかすかな音でしょう。しかし、こう詠まれると人は耳を澄まし、どんな音なのだろうと想像する。そこで静寂の世界に入り込むのです。だから、この句はほとんど聞こえないはずの音が聞こえるくらい静かなのです。青々はあえて聞こえないほど小さな音を聞かせることで、静かさを強調したのだと思います。要するに、外界の音を遮断するわけです。とたんに、目の前の世界が一変します。俳句において時間はひとつではないのです。外界の時間とはまったく違う速度で進んでいる別の時間がある。別の世界がある。芭蕉が〈閑さや岩にしみ入る蝉の声〉という句を以て打ち開いたのも、この静寂の時間であると思うのです。青々おそるべし、と思わせる一句です。