心太真つ暗闇を帰り来て 金子兜太

昨夜、金子兜太の最新句集『日常』を読みなおしていて、ふと出くわした一句です。『日常』には、もっと圧倒的に心を打つ句がたくさん入っています。どちらかと言えば、この句は目立たないほうの句かもしれません。しかし、この句はなぜか妙にぐっと来るものがある。

ただ、言葉にしがたい魅力を感じつつも、缶ビールを飲み、テレビを見、しているうちに、この句のことは頭から消えていました。すっかり夜も更けて、トイレに入る。そのときにふと、この句が口に出てきました。また、風呂のぬるいお湯につかったとき、この句が口に出てくる。口に出るというのはいい句の証拠だな、などと勝手に思うだけで、またすぐに忘れてしまいます。そうして、ぼんやりした頭のまま寝室へ行き、布団の中に入り、電気を消し、目をつむる。そのときです。突然、この句のリアリティに肌で触れたような感覚を受けたのです。

そうか、これは「産道」だ。

しかし、すぐに思い直します。いや、これは産道の「隠喩」ではないのだと。あくまでも、「ところてん」と「真つ暗闇」なのだと。

たしかに考えると、産道を出てくる感覚、出産のイメージにどこか似ているかもしれない。しかし、そんな安直な隠喩に落としてしまったら、この句の魅力は出てこない。実際、そのようには書かれていないのです。直喩の「ごとく」や「やうな」は使われていないし、暗喩でもない。はっきりと〈心太真つ暗闇を帰り来て〉と書かれている。

つまり、この心太は、たんなるイメージではないと思うのです。もしこれをイメージだと言うならば、こう言うべきです。イメージをはねのける「イメージ」であると。また、これを観念だと言うならば、観念をはねのける「観念」であると言うべきです。あるいは、むしろこれこそ客観なのだ、と言うこともできるかもしれない。しかし、それでもこう言うべきです。客観をはねのける「客観」なのだと。

言葉は便利だから、いろんな言い方ができてしまうわけですが、この句にあるものはそう書かれている通り、「心太」と「真つ暗闇」としか言いようがないものです。しかし、この二つは取り合さると、まったく違う力を引き出し合うのです。よくこんな取り合せを見つけたものだと思います。もちろん動詞の「帰る」が取り持っているわけですが。

薄灯もない秩父のけもの道をとぼとぼと歩き、帰るべきところに帰りつく。そこに突如、心太である。ぐにゅっと押し出される。あのぷりぷりした心太。この心太は妙に明るい感じがする。光り輝いているようにすら見える・・・。

いやいや、こんな想像力では弱い。心太が真つ暗闇を帰り来たのだと言わねばならない。それくらいのことかもしれない。もはや言葉そのものが勝手に動き出しているとしか思えなくなってきます。

金子兜太の天才を少し垣間みた気がします。

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