釘箱の釘ことごとく寒茜 長谷川櫂

釘箱を開けるとなかの釘がことごとく赤く錆びついていたのだろう。釘箱の外に広がる世界も、同様に真っ赤に染まっている。釘の赤がさらにあざやかにみえてくる。

また掲句を音にしてとらえなおすと、「KUGIBAKO NO KUGI KOTOGOTOKU KAN AKANE」となる。K音とG音が釘箱を釘が転がる音のようにも聞こえてくる。視覚と聴覚の際立つ一句といっていいだろう。

さらに、この句を読んで思い出すのは、尾崎放哉の〈釘箱の釘がみんな曲っている〉であり、飴山實の〈釘箱から夕がほの種出してくる〉である。前者は無季、後者は春の句(夕顔の種蒔く)になるが、併せて読むと、句の世界が広がってみえてくる。放哉の曲がった釘は凍えているようにも、飴山實の夕顔の種には釘の赤錆がついているようにも思えてくる。

もちろん俳句は一句独立したもので、完成していなければならない。掲句ももちろん完成した一句である。しかし俳句は一句で「完結」するものだろうか。そんな問いが浮かんでくる。完結してしまったら、俳句はつまらない。ときとして独立した一句一句が、時空を超えた対話のように響き合うことがあるのだ。

出典:句集『天球』

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