柄谷さんの話(平成二〇年十一月)

先週末、長池講義をうけてきました。初っぱなは、山下範久さんによるウォーラースティンの世界システム論をふまえての「ポランニー的不安とメタ普遍主義」という話。続いて、いとうせいこうさんの実物を使っての浄瑠璃考と高澤秀次さんの「歌の交通と信仰」の話。そして中休みをはさんで、柄谷行人さんの話でした。

柄谷さんの今回の話の画期的なところは、交換の「力」というのは、願望ではなく、つまり望むと望まざるとにかかわらず、反復強迫的にやってくるということでした。そして、交換を強いる「力」というものが、社会をつくっているということでした。

A象限の交換様式においては互酬性(reciprocity)がドミナントですが、そこでは共同体を共同体のままに保つために、国家となるような芽は絶えずつままれていなければならない。フロイトの『トーテムとタブー』において「原父」が抑圧されていなければならない理由はそこにあるわけです。しかし、A象限からB象限への移行、つまり国家(収奪と再分配の交換様式)においては、「原父」という国家(のイメージ)が抑圧されたものの回帰というかたちでやってくる。

次に収奪と再分配がドミナントの交換様式となったB象限において何が抑圧されるかといえば、「世界宗教」というものになります。それは、フロイトの『モーゼと一神教』を参照すべきところですが。そして、B象限における交換の力を強いるものは、「世界宗教」的なものの抑圧にあることになります。つまり、B象限からC象限への移行において、唯一神としての貨幣をもたらすような世界宗教(としての資本主義)が回帰するという形をとると考えられます。

そしてC象限(資本主義)の限界が露呈している現在、問題となるのは、C象限からD象限への移行においては、何が回帰するのかということです。柄谷さんの話によれば、それはABC象限に移行する以前四〇〇万年もつづいていたband社会にあったような「自然状態」の反復的な回帰になるではないかと思いました。これはおそらく、人類が定住することによって手放したような「何か」なのでしょう。いずれにしても、これまでのABC象限にあるような交換様式がもたらした社会システムでは、どうやら手に負えないような事態がやってくるのではないかと、そう考えざるを得なかったのですが・・・。

問題は、それがどんな事態なのかです。

簡単に考えれば、定住というものが成立しないような事態とは、何らかの要因で人が住める国土を失うということがおきれば、人は流動せざるを得なくなります。例えば、通貨破綻などという軽いレベルのものではどうかと思いますが、気候変動による食料や水の局所的な不足状態とか、地震や津波などによる大規模な災害とか、あるいは事故や戦争による放射能汚染ということもありえますし、要するに国家や資本というものでは、もはやどうしようもないような事態というものが、来ないということは言い切れません。そのような事態において、強いられる交換の「力」とは、いったいどのようなものなのか・・・。

長池公園には三十分前に到着し、瑠璃姫伝説ののこる池の周辺を散策してたっぷり初冬の風と光をうけたせいか、講義を受ける前から身も心もからっぽの状態になっていましたが、やはり講義終了後は一気に充満してしまって、いっぱいいっぱいでした。

帰宅後、柄谷さんの話を山下さんの話もどって、つなげて考えてみました。山下さんの話は、人類史というものを段階的に考えているのではなくて、柄谷さんがいっている ABC(互酬性/収奪と再分配/貨幣交換)の交換様式はそもそも同時にあったと見るのです。ABCの結合の形が組みかわっていると見るわけです。つまり、この結合が組みかわり得るということが、見えてしまう時期と見えにくい時期とがあるということになるわけです。中世は可視的な時期で、近世は不可視的な時期であって、近代から現在にかけて可視的な時期に入っているということになる。ただ、そこでもう一度不可視な時期への「大転換」が起きるのかどうかということを、ポランニーのように不安がっていてはいけないというわけです(フクヤマのようなポジティブなものであれ、ジジェクのようなネガティブなものであれ)。形式としての普遍をおのおのがもつのだということを前提にしてさえいれば、不安がる必要はないということです。もちろん内実としての普遍は各々異なるわけですが、普遍を目指しているということ自体において、その形式において十分、普遍性を共有できる。だから、ABC各象限において可変性が露呈しても、あわてなくてもいいということなのではないかと思います。

ただ柄谷さんもリニアな線で考えているわけではないんですね。そういう意味では、山下さんのいう「形式としての普遍主義」というのは、柄谷さんのいう「世界共和国」に通じるものがあるかもしれません。それはやはり国連のような具体的に顔をもったものではない、ということですね。それぞれの社会において、それぞれの普遍性があり、それらは複数存在するが、形式としては共有できるということになるのでしょうか。

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