夏の闇鶴を抱へてゆくごとく 長谷川櫂

作者の代表作のひとつに挙げられる句であるが、なぜか句集におさめられていない。さまざまな解釈がありそうな句であるが、私がこの句を読んだときに、とっさに思い当たったのが、「鶴の恩返し」という話である。もちろん、これは日本人ならだれでも知っている有名な民話である。

お話になっているところでは、ある雪の日に、罠にかかった鶴を助けて帰ったら、後日また雪の降りつもる夜に美しい娘が家にやってくるわけだが、この句は違う。逆なのだ。季節も夏であるし、帰るどころが行ってしまうのだから。

そうすると、そもそも「鶴の恩返し」を想起するのはおかしい話になる。しかし、私にはだからこそ、この句が「物語」を越えたところに触れているように思えてならないのである。

「鶴の恩返し」という話は、おそらく民話学的には「異類婚姻譚」というカテゴリーに入れられるだけだと思う。しかし、詩の世界ではそうならない。詩の力は、カテゴリーのおよばないところをくぐってくる。それを正しく何と呼べば良いのか、私は知らない。無理矢理言うとするなら、「自然との交流」とでも言おうか。しかし、それは自然と人間というような図式に入れられる以前の「自然」との交流である。

思い込みに過ぎなければそれまでだが、「鶴の恩返し」という物語は、自然への無意識の「うしろめたさ」を解消するための仕組みとして、繰り返し、語られてきたのではないかと思う。しかし、この句の場合、そのような物語が発生する最初の出来事において、まったく逆のことをしているのである。罠にかかった鶴を助けても、家に帰るのではなく、そのまま一緒に自然のほうへ行ってしまうのだから。

言ってみれば、この句は「お話にはならない」のである。つまり、物語をその始まりに戻すのみならず、物語の制度そのものを壊しているのだ。

そう思うと、この句は一つの「態度表明」のように思える。この句は、自然に畏れおののいている人の姿でもなければ、自然を道具として利用するだけの人の姿でもなく、自然と交流を持とうとする(自然とともにあることを目的とする)人類の一つの姿を示していると思うのである。

とはいえ、そのような取り方をして良いものかどうか、まったく分からない(作者にはあっけなく否定されるかもしれないが・・・)。ただ、少なくとも俳句というものは、程度の差はあれ、「自然との交流」の賜物であるということは言えると思うのである。

3件のコメント

  1. すごく初歩的な質問で申し訳ないのですが、「抱へて」は「抱ひて」ではないのはどうしてでしょうか?

  2. 「抱へて」は、「かかへて」です。「いだいて」であれば、イ音便なので「抱いて」ですね。

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