何もかも映りて加賀の田植かな 飴山實

※書き直しました。

湿った土の匂いまでしてくるような気持ちのよい一句です。この句の季語は、もちろん田植えです。雪解け水がたゆみなく流れ、生きものたちの動きも活発になってきた、雪国の初夏。田んぼにも水がはられ、鏡のようにあらゆるものを映し込んでいる。おそらくまだ田植えはすんでおらず、今にも田植えを始めんとするときの光景なのではないかと思います。

これまでの飴山實論につなげて考えると、この句にも「浸透力」があらわれている思います。光(=あらゆる色)を映し込む水の表面は、もはや「角膜」のような「皮膚」へと変成しているのだと思います。そこには、田植え前の人々の活気も映っているし、また春に散ったはずの桜の花の面影まで照り映えている。水田の表面は、巨大な角膜のようにあらゆるものを映し込んでいる。それと同時に、あらゆるものに触れている、感じているかのようです。見ることと触れることとが、ありえない合致をしているといってもいいかもしれません。

さらに、この句では「加賀」という固有の地名が効いています。加賀は能登半島の根っこのあたりの雪国で、九谷焼や漆器で有名ですが、もちろん古くから稲作のさかんな地域であり、田園地帯です。この句は、加賀の個性的な風土があるからこそ、この光景がよりいっそう輝き出す。そう考えるのが普通だと思います。しかし、固有の地名が句におよぼす働きはそれだけではないと思うのです。

というのは、加賀の風土に似た風土を持つ場所は他にもあります。気候や風土だけでは、加賀でなければならない理由にはならないのです。それは「加賀」は動くか、動かないかという問題です。この句は「伊賀」であってもいいし、「甲斐」であってもいいと考えたほうが、むしろ「加賀」でなければならない理由がはっきりしてくると思うのです。

例えば、この句の場合、加賀(かが)という音が輝く(かがやく)や鏡(かがみ)という言葉を呼び込んでいると考えてみる。すると、ここは「加賀」でなければならないと思えてくる。そういう考え方もあるでしょう。あるいは、加賀は一向宗の僧侶に率いられた農民の武装蜂起、つまり一揆のあった歴史的な場所だということもあります。つまり加賀という固有名に刻み付いている歴史性があるわけです。そう思うと、加賀の水田には、一揆を引き起こす民衆のエネルギーが帯電しているようにすら思えてきます。

もちろんこの固有名の問題はもっと奥が深いと思います。これは、季語の問題ともからんでくるはずです。しかし、突き詰めていくには字数が足らないので、これまでとします。

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