刈らんとて芒にふかく沈みたる 飴山實

この句もまた、飴山實の皮膚の浸透力を感じさせてくれる一句です。夏の芒は青々しているが、秋になると芒は金色に変わる。「刈らんとて」というのは、月見のために芒原に分け入って刈り取ってこようというのでしょう。風にたなびく芒がしきりにざわめいてる。芒は大きいものは二メートル近くなるから、根もとで刈ろうと身を屈めれば、その音のトーンが下がり外界から遮断されたような感覚になる。まさに芒の「海原」に沈み込んだかのように。つまり、芒を「高さ」ではなく、「深さ」としてとらえるわけです。それは、視覚で対象をとらえるのではなく、むしろ聴覚や皮膚感覚のような受動的な感覚に沈み込むということです。芒の海原に深く沈み込み、芒の金色に染まりきること。この句は読者をそのようにいざなっているように思えてきます。そこで思い起こすのは、飴山實の初句集『おりいぶ』(1959年)にある〈菖蒲湯に底まで夕陽子と沈む〉という句です。飴山實は「前衛的」と形容される『おりいぶ』のあとおよそ十年の中断があって、第二句集『少長集』(1971年)で復帰するわけですが、それから古典回帰の代表格として見なされてきたというのが、俳句界の常識だろうと思います。たしかに、誰の眼にも飴山の俳句におこった変化は明らかです。しかし、この句は『花浴び』(1995年)におさめられている晩年の作です。その晩年の句と初句集にある一句とが、これほど響きあっているのはなぜか。私には、このような皮膚感覚こそが飴山俳句の本質であって、それはおそらく終始貫かれているのではないかと思うのです。

追記:『辛酉小雪』(1981年)にある〈菊切りに出てゐて茜びたしかな〉という句もまたこの間においてみるとなお、これらに通底するものを実感できるのではないでしょうか。

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