蟻うごく目高の水をへこませて 飴山實

この句の中心は何処にあるか。蟻も目高も夏の季語ですが、焦点は蟻のほうにあっているので、たしかに蟻のほうに重心があります。分類するときは、蟻の句でいいのだろうと思います。しかし、蟻の重さをとらえているのは、へこんだ水の表面です。蟻のかたくて細い針のような手脚が、蟻地獄のようにへこんだ水の表面を必死に掻いている。掻いても掻いても掴めるものは、ないに等しき水。蟻の動きは結果的には、自らの重さを水にみとめさせるようなものであり、そして死にいたるのでしょう。蟻にしてみれば、水中は大気という内部に対する外部であり、そちら側で待っているものは死です。しかし水中にいる目高にとっては、水の中こそが内部であり、外へ出てしまえば、いずれ死ぬほかないわけです。蟻と目高は内部と外部の関係が反転する世界にそれぞれ生きている。そのまったく相容れない二つの世界が唯一共有する場所、それが水面です。この句が強烈に浮かび上がらせているのは(へこんでいるにもかかわらず)、このあるかなきか決定不能な水の表面であり、そこにおいてこそ、詠み手の感覚はもっとも研ぎすまされるのではないかと思います。これまで述べてきた飴山實の句の皮膚感覚を、この句においてもまた確認せずにはいられないのです。

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