俳句はネット社会を生き抜けるか(3)

ネット社会で失われつつあるもの

インターネットは進化の途中にある。ブロックチェーン、NFT、メタバース、そしてAIといったWeb3.0時代に入ろうとしている。これまでの常識では測れない問題がまだまだ起きてくるだろう。これまで述べてきたようなネット社会の現象を抑制するような新しいテクノロジーや法規制が実現する可能性もあるだろう。そこでは、もはや個人のリテラシーに依存しないようなテクノロジー自身による調整も可能になるかもしれない*9

そこで、ここではもう少し広い視野で、ネット社会における俳句について考えてみたい。

近年、タイパ(タイムパフォーマンス)という言葉に代表されるように、誰もが結果や答えを効率よく、素早く得たがっている。検索エンジンも生成AIもそうだ。知りたいことを瞬時に教えてくれる。そのようなライフスタイルによって失われているものは何か。それは、自省したり、疑ったり、想像したり、考えたりする「時間」なのではないだろうか。この「時間」は効率化することなどできない。時間の節約や効率化は、たしかに余剰時間を生み出してくれる。しかし、そうして生み出された時間も、効率化できる時間として消費されてしまえば、効率化できない「時間」は失われてゆくこととなる。

アッバス・キアロスタミ監督の映画『友だちのうちはどこ?』は、友だちのノートを持ち帰ってしまった主人公の少年が、そのノートを返すために、遠く離れた村の友だちのうちを探しにいく話である。舞台はイランの山岳地方の村で車も走っていない。もしこの舞台にスマートフォンやGoogleマップがあったら、この映画は成立しない。

われわれは、言わばこの映画の主人公が「友だちのうち」というわからないものに向かって、さまざまなものを犠牲にしながら、路地や林を駆け回る、この距離を失ったのだ。この距離が、結果や答えに行き着くまでのプロセスであり、試行錯誤であり、考えることそのものである。つまり、この距離こそがまさに効率化できない「時間」にほかならない。

実は、この「時間」こそが「孤独」なのである。皮肉なことに、近代化とテクノロジーの進化によってますます孤独になっていく個人が失いつつあるものとは、実はこの「孤独」そのものであると言ってもいい。

三浦雅士は『孤独の発明』*10の中で次のように述べている。

《孤独とは言語ともに古い。それには理由がある。孤独とは自分で自分に話しかけることだからである。そして、言語こそ、自分で自分に話かけることをもたらしたものなのだ。すなわち、人は言語によって孤独になり、孤独になることによって言語を得たのである。》

デカルトの方法的懐疑(「我思う、ゆえに我あり」)もこの「孤独」が内包するものだと三浦は言っている。あらゆる情報は疑えるが、疑っている「この私」があることは疑えない。それは、インターネット(全体)とアカウント(個)の間で常に距離をとり、疑いを持ってものをみる「孤独」すなわち単独性の働きにほかならない。

《孤独は人間の特性である。誰もが孤独だ。それは誰もが私であるのと同じだ。だが人は、誰もが孤独であるというそのことにおいて結び合う。いわば、人と人とは分かりあえないということだけは分かりあえるというかたちで、分かりあう。孤独な読書において、人は数万、数十万、数百万の孤独な魂と結びあうことができる、時代を超えて。》

本を読む時間もしかり。インターネット上には短時間で意味だけを理解する本のサマリーがあふれ返っている(本自体もまた手っ取り早く意味だけを理解できるような図解本が増えている)。映像もYouTubeなどでは倍速以上で観るのが普通なのだそうだ。まるで孤独から逃げるように「孤独」を喪失していく現代人の姿が見えてくるのではないだろうか。

だとすれば、詩や歌、そして俳句といった文芸は、なおさらインターネットで調べてわかるものではない。これほど情報検索から程遠いものはないだろう。なぜなら、俳句は意味ではないからだ。小説や論文のようにあらすじを要約する必要もない。俳句は意味を理解するものではなく、味わうものである。十七音の世界一短い詩は瞬時で意味は理解できるが、俳句を深く味わうには「孤独」という次元の違う時間を要する。

例えば、詠み手の心に成る。これも「孤独」のなせるわざだろう。詠み手の心を取り巻く背景や環境を含めて感じなければ、味わえない。「相手の気持ちになって考えろ」というが、これは相手の気持ちを単に理解するのとは違う。おのれの人称を外して、相手の心になるということだ。もちろん詠み手は他者であり、相手の心になろうとすればするほど、むしろ差異に触れることになる。

そのような「孤独」の時間を味あわせてくれる場所が、「座」であったのではないだろうか。つまり、結社とはそういう場所でなければならないのではないだろうか。

しかし、インターネットが世界を覆うはるか昔から、結社はそのような場所ではなくなってしまったのではないだろうか。柳田國男は「病める俳人への手紙」*11のなかで、こう述べている。

《近頃の結社組織では、よその流派を悪くいい、自分たちの作ったものだけを満足なものとすることを商売にしています。〈中略〉現在の俳句界などは修羅道です。どこにも世に疲れた者の憩いの場はありません。それというのが点取り式の競争が、少し形をかえてなお続いているからだと思います。》

俳句は、座の文芸であると同時に、孤独な文芸である。座を失えば成り立たないし、孤独を失えば成り立たない。大岡信は『うたげと孤心』*12の中でこのように述べている。

《現実には、「合わす」ための場のまっただ中で、いやおうなしに「孤心」に還らざるを得ないことを痛切に自覚し、それを徹して行なった人間だけが、瞠目すべき作品をつくった。しかも、不思議なことに、「孤心」だけに閉じこもってゆくと、作品はやはり色褪せた。「合す」と意志と「孤心に還る」意志との間に、戦闘的な緊張、そして牽引力が働いているかぎりにおいて、作品は稀有の輝きを発した。私にはどうもそのように見える。見失ってはならないのは、その緊張、牽引の最高に高まっている局面であって、伝統の墨守でもなければ個性の強調でもない。単なる「伝統」にも単なる「個性」にもさしたる意味はない。けれども両者の相撃つ波がしらの部分は、常に注視と緊張と昂奮をよびおこす。》

文芸批評家の三浦雅士は、大岡信の『うたげと孤心』や山崎正和の『社交する人間』を取り上げて、次のように述べる。

《個人と集団は反対概念というよりはむしろ同種の概念なのであり、個人や集団の反対概念こそ仲間や友人、同好の士といったものなのだという見方は、私にはきわめて重要に思われる。》

自分が思うように他者も思うはずだとみなすのは、独我論である。独我論的な集団は、その集団的な意に反するものを攻撃し、排除しようとする。このような独我論に陥った個人や集団に対立させるべきは、単独な差異としての「孤独」であり、同士の社交からなる結社である。

ネット社会やデジタルメディアがどこまで進化*13しようと守らなければならないのは、このような「孤独」と「同士」にほかならない。

*9:もちろん楽観的なことばかりではない。テータ収集や分析技術の向上により、個人のプライバシーが侵害される可能性が増大しているのも事実であり、また「ディープフェイク」とも呼ばれるが、AI技術の悪用によって、偽情報が巧妙に生成される危険性もある。
*10:三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』(講談社)
*11:柳田國男「病める俳人への手紙」『柳田國男文芸論集』(講談社学芸文庫)。
*12:大岡信『うたげと孤心』(岩波書店同時代ライブラリー)
*13:AI技術の進化について補足すると、生成AIとの対話や情報の取得において重要なのは、「プロンプトエンジニアリング」であると言われる。「プロンプト」とは生成AIが質問に答えるための前提にあたる入力文である。生成AIからよりよい情報を得るためには、生成AIが理解しやすいように、明確で適切なプロンプトを与えることで、より正確かつ有益な結果を得ることができる。つまり、生成AIは、人に話しかけるように聞くだけでは、何が聞きたいのかを教えてはくれないのだ。ふり返ると、誰もが検索エンジンに入力する言葉は検索エンジンが理解しやすいようにキーワードを入力しているし、翻訳ソフトに文章を入力するときも、翻訳しやすいような文章をあえて書いている。これは人間がむしろコンピューターに合わせているわけだが、気づかないうちに、コンピューターが人間に近づくよりも先に、人間がコンピューターに近づいてしまうかもしれない。

※『きごさい16号』(2024年)に掲載されたものです。

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