いくさある世をよろこばず実朝忌 飴山實

実朝とは、もちろん源実朝、頼朝の次男にして鎌倉幕府第三代将軍のことです。将軍とは名ばかりで、政治の実権は北条氏ににぎられていていましたから、武士というよりも歌人としての人気が高い人です。当時、「新古今和歌集」をまとめた藤原定家との親交もあり、実朝本人は万葉調の和歌家集「金槐和歌集」をのこしています。芭蕉も、真淵も、子規も、茂吉も、評価の仕方は違いますが、実朝の功績を疑う人はいません。また、親類に暗殺されるという悲劇的な最期もあって、実朝はその一生そのものが語られることも多いと思います。

実朝の祖父は、保元の乱で活躍し、平治の乱に破れた源義朝です。貴族社会に対して武士の「プライド」を力で見せつけた義朝は、逆にそのために親兄弟を自らの手で処刑されられるという屈辱をうけ、さらに自分が命がけでまもった貴族たちの裏切りによって都を負われる。そんな父義朝をみて育った頼朝は、もはや京のようなぬめっとした貴族社会ではない新しい社会を築きあげる。鎌倉を中心に東国を開発した頼朝の「フロンティア精神」は、日本の歴史上はじめてのことだと思います。義朝は武士が力において貴族社会に勝ることを証明し、頼朝はさらに社会を構成するテクノロジーにおいても貴族社会を凌駕した。そして、実朝にのこされたものが、美の領域だったのではないかと思います。

つまり、義朝が示した武士の「プライド」と、頼朝の「フロンティア精神」の上に、さらに実朝が目指したもの。それは都の貴族文化に匹敵し、またそれを凌駕しうる新しい美(文化価値)の創造です。その実朝が夢見たものは、和歌や連歌から独立した新しい詩の形式である俳句の心と、どこかで深く繋がっているはずです。

そんな実朝のことを思えば、この句の「いくさある世をよろこばず」というフレーズがぐっとくるはずです。実朝忌は二月二十七日ですが、実朝は旧暦の一月二十七日、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内で甥の公暁に暗殺されます。享年二十八歳。

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