蝉花や疎き山辺の青葉垣 松瀬青々

蝉花(せみはな)とは、この句を読んではじめて知った言葉です。同じ意味の季語に、「蝉茸」や「冠蝉」という言葉もあります。蝉の幼虫が土から這い出ても、蛻変(成虫になること)できぬまま、頭から橙黄色の棒状の茸が生えてくるのだそうで、その状態を「蝉花」と呼ぶのだそうです。「風の谷のナウシカ」の王蟲のモデルは、おそらくこれでしょう。通常よりも湿気が多いときに、蝉の幼虫に菌が寄生して、「蝉花」へと成長するのだそうです。

蝉は句に多く読まれています。だから、その季語の本意はいまさら説明する必要もないと思います。蝉は七年から十年も地底を住処とするわけですが、地上に出れば、その一夏で死を迎える。蝉にとって地上の夏とは、まさに「地の果て」であり、「至上の時」です。とすれば、この蝉花は、その至上の時の一歩手前で命を絶たれたものだと言えます。しかし、見方を変えれば、成虫に化するのではなく、動物から植物へ変化したのだとも言えるわけです。翅をひらいて命の限り鳴くことを許されなかった代わりに、花を咲かせることを許された蝉。それが蝉花だと思うのです。

この句は、「疎き」が効いていると思います。うといというのは、よく知らない、明るくない、という意味ですから、そこは見知らぬ場所なのでしょう。よく知っていると思ったところでも、こんなところがあったのかとか、ここはどこだろうと思うような場所があるものですが、おそらくそう思っていたはずのものがそうでないときの「驚き」や「戸惑い」を含んでいる光景なのだと思います。それが、蝉花という存在と響き合っているのではないかと思います。

先日帰宅途中に、家の前の歩道で蝉の幼虫を発見しました。街灯の下、アスファルトのかたさをたしかめるように一歩一歩ゆっくり進んでくるのです。こんな郊外の町でも、地底には蝉たちの生活圏があるのだとあらためて思い知りました。誰かに踏まれたりしないように、自分の指にのぼらせて、街路樹に離しておきました。翌朝行ってみるとしっかり翅をひろげた成虫の蝉がその樹の幹にとまっているではないですか。こちらが蝉に気づくと、向こうもこちらに気づいたのか、鎌のような右手をぐいとあげたのです。もちろん偶然なのですが、やはりこちらも普通に挨拶してしまいました。

おまけに青々の蝉の句をもう一つ。

〈何もせず蝉の力をきく日哉〉

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