バビロンに生きて糞ころがしは押す 加藤楸邨

フンコロガシは日本にはいない。夏の季語とされるらしいが、定着はしていない。かつて古代エジプトでは、フンコロガシは天の運行を司る神であったそうだ。糞を転がすごとく、天体を転がすというわけである。実際、フンコロガシは太陽や月や天の川の光を感じとって糞を転がす方向を決めているので、あながちでたらめでもない。

この句は前書きに「バビロンの廃墟にて」とある。バビロンがまだ廃墟になる以前も、また廃墟になった今も、あるいはバビロン捕囚のときですら、そんなことには目もくれずただ糞を押しつづけてきたフンコロガシ。そんな実際のフンコロガシを目の当たりにして詠まれた句であろう。フンコロガシはまるで神話をふくめた歴史の外を生きているかのようにも思えてくる。

この句に先んじて、楸邨には〈糞ころがしと生れ糞押すほかはなし〉という句がある。受け入れざるをえない宿命を己に言い聞かせているような句である。どんなものでも、何ものかとして生まれた以上、そうするほかないことがある。そこに驚きをおぼえる。これはまさに小林秀雄の『様々なる意匠』の次の一節を思い起こさせる。

人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚く可き事実である。

バビロンの句は、この自分の句を下敷きに新しい句として詠まれたわけだが、この自己が自己をのみ込んでいくような句作りは、楸邨の一つの特徴であろう。波が波をのみ込み、またその波を波がのみ込む。まさに怒濤を思わせる。

この二句を比べてみれば、明らかにバビロンの句のほうが明るく前向きである。この事実は、加藤楸邨という俳人の晩年が、まさしくそのような方向に進んでいったことを明らかに示している。かつての荒々しい怒濤は、おだやかなさざ波にのみこまれたのである。

1件のコメント

  1. 補足すべきは、加藤楸邨がキリスト教徒であったということであろう。

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